薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
薬師寺 お写経の功徳 日本人の浄らかな心の結晶を、白鳳時代の堂塔伽藍のたたずまいとして子孫に残すことができ、それが今の人々の心の救い、浄らかな心の喜びのお手伝いになるならばという願いのもと、昭和43年(1968年)から始められた般若心経の写経勧進により金堂が 西塔が復興された。お経は文字を見ただけ... 続きをみる
薬師寺近くの小さな本のある喫茶店
薬師寺 お写経の功徳 日本人の浄らかな心の結晶を、白鳳時代の堂塔伽藍のたたずまいとして子孫に残すことができ、それが今の人々の心の救い、浄らかな心の喜びのお手伝いになるならばという願いのもと、昭和43年(1968年)から始められた般若心経の写経勧進により金堂が 西塔が復興された。お経は文字を見ただけ... 続きをみる
薬師寺 休ヶ岡八幡宮 薬師寺 南大門の南には 休ヶ岡八幡がある。古来からの神道と外来の仏教とが信仰的に併存し、伽濫守護のための鎮守神として祀るようになった。平安初期に造られた三神が祭られている。 薬師寺を車で来れれた方は駐車場から藥師寺南大門途中にある神社になる。 ■ 住所 630-8053 奈良... 続きをみる
仏足石 薬師寺ご本尊の後ろには仏足がある。 そこには 歌碑がる。 その歌碑には、仏足礼賛と生と死の歌が刻まれている。 歌五七五七七七で、万葉仮名にて刻まれている。 美阿止都久留 伊志乃比鼻伎波 阿米爾伊多利 都知佐閉由須礼 知々波々賀多米爾 毛呂比止乃多米爾 みあと造る 石の響は 天に至り 土さ... 続きをみる
薬師寺 花会式 花会式として行われている修二会関係の文章は 「修二月造花人注文」といわれる文章が、1717から1850まで百年以上にわたる130通もの同じ形式の文章として貼り継がれている。 薬師寺には色々な法会があるが それぞれ文章が引き継がれている。これは 薬師寺の僧侶がいかに 法会の伝統を大切... 続きをみる
薬師寺 修二会花会式 花会式の名前で親しまれている修二会は 練行衆が17日間悔過作法をする法要である。 悔過とは 知らず知らずの間に犯した罪を懺悔することである。 堀川天皇の皇后の病気平癒を願いそれが叶い宮中の女官と共に 造花を造り それを翌年の修二会に供えられたのが始まりといわれている。この造花... 続きをみる
薬師寺の景観 薬師寺の場合は 勝間田池(通称大池)から望んだ景観がすばらしい と平山邦夫の言葉にある。フェノロサが 凍れる音楽 とたたえた東塔は、白鳳の姿を凛として伝えている この姿は白鳳時代から続いている。 青垣籠れるの青垣には若草山 高円山がありそれを背景に 東大寺の大仏殿 興福寺の五重の塔 ... 続きをみる
薬師寺の花会式 花会式の起源は 堀川天皇が皇后の病気平癒のためと伝えられている。一方では鳥羽院(堀川天皇の第一皇子御願 という説もある。この伝承は12世紀初め白河院政期に、古代以来の薬師悔過の何らかの見直しがあり、修二会維持のためではないかとも言われている。また、修二会と花会式は本来別々のもので... 続きをみる
薬師寺の花会式 ⑤ 法会を始めて7日目の結願の日 最も見応えのある式がある。 初夜に先立ち練行衆はまず、金堂の東側基壇に出仕し、「神供」をする。東を向いてお経を読んだ後、春日明神への献灯として一本づつ持った松明を振り回して前方へ投げる。堂内に戻って最後の初夜の作法や「呪師走り」が終わる。結願の護... 続きをみる
薬師寺の花会式 ④ 花会式の行法は、時導師(悔過導師)による悔過の作法 大導師による、祈願の作法 呪師による呪禁の作法から構成され、さらに満行の日に結願の作法がある。 3月28日は、本尊に供える餅を搗く。 その餅米を蒸した湯で本尊のお身ぬぐいが行われる。 3月29日には 色とりどりの造花で... 続きをみる
藥師寺の花会式 ③ 法会には十名の僧が練行衆となって出仕する。その中心となるのが大導師・堂司・呪師の三役で、他の七名の僧は大衆と呼ばれる。さらに堂内の準備や行法の舞台裏の一切を取り仕切りる堂童子役や練行衆が籠もる地蔵院での食事や参詣者の世話などをする納所(なっしょ)の人々が加わって、七日間の行事が... 続きをみる
薬師寺の花会式 ② 薬師悔過と練行衆 花会式は毎年3月末から4月5日まで行われる(日程は薬師寺HPを毎年参照してください)17日(七日間)の行法である。一日を六時に分けて六回の行法が行われるが、六時とは、初夜・半夜・後夜・晨夜・日中・日没・のことで、薬師悔過作法による読誦が、初日と最終日以外は毎日... 続きをみる
薬師寺の花会式 天武9年(680)皇后 後の持統天皇の病気平癒のために薬師寺は発願された。この薬師寺の法会のなかで、もっとも重要な最勝会で 維摩会(ゆいまえ) 御斎会(ごさいえ)とともに南京三会の法会の一つある。しかし 講堂の焼失などで中絶した。平成15年(2003)大講堂が再建されそこで上演され... 続きをみる
レンゾ 又はレンド 3月~5月 春の訪れとともに広く農家である行事である。 今レンゾは寺院た神社に関連した行事であると思いがちであるが、本来の行事作法は、漣やヨモギなどの香りの強いものを食べて体内の毒気を祓い、身体を浄め、ツツジなどの木や春には降臨刷する田の神様を山に迎えに行き、そこで持参した食べ... 続きをみる
文殊会 興福寺 興福寺は藤原氏の氏寺として、藤原不比等(ふひと)が厩坂(うまやさか)にあった厩坂寺を平城の地に移した寺である。藤原氏が隆昌におもむくにつれ、この手も盛大となり、寺領も全国に及び、堂塔伽藍が百数十棟、僧侶も三千の多数であった。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-... 続きをみる
文殊会 3月25日 26日 桜井市 安倍文殊院 丹後の切戸 奥州の永井とともに日本三大文殊の一つとして知られている。 安倍の文殊は知恵文殊 とうたわれているように、文殊菩薩の知恵にあずかろうといつのが子供たちの願いであり、親のねがいでもある。 獅子背上に座し、右手に降魔の利剣を左手に蓮華を持つ木造... 続きをみる
法隆寺会式 ② この法要で珍しいのは大壇と須弥壇の間にある須弥山を型どった大山立で、2.5㍍もある大きなもの。その先には割り竹に団子で造った五色の鳥を飾り、その下に火焔をあらわした餅や日月をあらわした餅で囲み、さらに梅 水仙 みかん 柿などで壮厳されたものをおおきな三宝にのせたまことに見事なもので... 続きをみる
法隆寺会式 ① 3月22日〜24日 この会式は正徳太子の霊をまつりご聖徳を迫慕奉賛する法要で、寺では聖霊会と称し、一般に法隆寺会式と呼んでいる。 この起源については詳かではないが、「古記」によると夢殿を再建した行信僧都が聖武天皇の勅許を得て 太子のご命日の旧暦2月22日におこなったのが起源といわれ... 続きをみる
子供ねはん ② 奈良県の田原地区では公民館にて 子供ねはん講の話や紙芝居などゲームや工作などがおこなわれる予定です。 昔は、天理市、山添村、都祁村では「子供入り」といって男の子が生まれた家が宿になって、村中の子供仲間にご馳走する。田原村では、子供のおとな入り といって子供仲間の最年長の16歳でオヤ... 続きをみる
子供ねはん 春分の日 釈迦入滅の日といわれる旧暦2月15日に村々の寺で涅槃会が営まれる。明治の改暦以降多くの村々年では、3月15日に行うようになった。涅槃会は、年寄りが参詣してお勤めをする風習は各地にみられるが、これが「子供涅槃」といって、子供の営む行事になっているところが北は奈良市の東部(旧大柳... 続きをみる
春日大社の御田植祭 ② 3月15日午前10時からはじまる。五穀豊穣を祈る祝詞を秦し、祭ははじまる。その後神楽男 八乙女 田主 などがお祓いを受けて 田圃を耕す所作をおこなう。 神事が終わった後、参拝者の希望により、松苗を授ける。この松苗は江戸時代に白毫寺村の杉町の松葉を用いたことが故実になっている... 続きをみる
春日大社の御田植祭 ① 3月15日 五穀豊穣を祈願する祭典 御田植祭と御田植神事からなっている。 二条天皇の時代(1163)正月の申の日にはじめておこなわれた。 祭典の方法についおては詳しい記録が無いので定かではない。その中で比較的詳しい記録を伝えているのは、 1740年村井古道の 南都年中行事 ... 続きをみる
春日大社の春日祭(申祭り)③ 賀茂祭、石清水祭、春日祭、の三祭の復興はそれぞれの祭祀に特徴があるからである。加茂祭は行粧の美と、一般祭祀の典型であり、石清水祭は仏教の放生会を加味した祭り、そして春日祭は氏神祭の遣風の多分に含まれている祭祀として 三祭祀保存の意義がある。 春日祭の祭列は美しく、この... 続きをみる
春日大社の春日祭り(申祭り)② 貞観年間には祭典は殿舎、すなわち車舎(くるまたどり)着到殿、幣殿、舞殿、直会(なおらいでん)竈殿(かまどの)、酒殿、内侍殿、などが完備し、社頭はいよいよ壮厳を加えた。貞観儀式は、祭の数日前に河頭祓があり、斎女は車に駕し左右の兵士及び衛符などがこれに従い、山城の国司ら... 続きをみる
春日大社の春日祭 3月13日 春日大社は奈良時代の社で、その例祭社名によって春日祭(申祭り)とよおばれている。 その勅祭は仁明天皇の嘉祥2年(845)にも行われ、藤原氏の勢力が隆盛となるにつれて次第に盛大となった。清和天皇の貞観八年(869)には11月9日庚申の夜執行され、藤原須恵子が斎女とし、神... 続きをみる
談山神社 八講祭 本祭ひゃ12日正午頃から八講堂で行われる。翌年の当番の大字から祢宜らの役員4〜5人が鎌足画像のお迎えにやってくる。この翌年当番の大字を下座受という。一行が大学入口まで来ると太鼓をならし、本年当番側の代表者が出迎えにゆく。 祭式は宵宮祭とはほぼ同様で行い、終わると双方の祢宜が、一同... 続きをみる
談山神社 八講祭 八講祭は3月11日に宵宮祭、12日に本祭が行われる。神事奉仕中に祢宜一名、副祢宜二名がおり、大字の長老とか講にゆかりの深い家筋の中から選ばれる。 まず宵宮祭は、早朝から役員が羽織袴を着て大字の八講堂に参集し、(多武峰の場合は談山神社)、神饌の準備をし、午前11時頃に村人に触れをす... 続きをみる
桜井の八講祭 ② 八講祭は年番交替で行ない。浅春の三月十二日正午頃から、談山神社の御祭神藤原鎌足公父子の画像ならびに寒山拾得(かんざんじっとく)の軸をかかげておごそかに執行される。 画像の詳細は、中央に鎌足公の坐像、その右に定恵(じょうえ)和尚、左に淡海公(藤原不比等)を描き、その周囲に諸菩薩およ... 続きをみる
桜井市の八講祭 桜の名所の談山神社での春のお祭り。 また大化の改新でも有名な神社である。 桜井市多武峰附近談山神社を心のふる里とする生田(おいだ)浅古(あさご)下(しも)倉橋 下居(おいり)多武峰(八井内 百市 飯盛塚 針道 多武峰 西口)横柿 今井谷 の八か所では八講祭が行われている。以前は北音... 続きをみる
二月堂 お水取り ダッタン この水取りの行事に続いて堂内ダッタンと呼ばれる妙法がある。 袈裟衣を紐でwしばり、頭に金色の鏡が何枚もついている金欄の帽子「ダッタン帽」をかむり、足袋はばしとなり袴をしばりあげるといった勇ましい姿の練行衆が内陣西正面にあらわれ、火や水,芥子(前麦)楊枝などを投げ、太刀、... 続きをみる
お水取り 香水 香水は若狭国(福井県)の小浜から送られる水であるという。実忠和尚が、二十七日の行法の中で全国の一万三千七百余の神々を勧請されたところ、若狭国の遠敷明神が川で魚をとって勧請におくれおくれられたので、その罪ほろぼしのために本尊に香水をさし上げるとおっしゃると、現在若狭井のあるところから... 続きをみる
二月堂 お水取り 初夜と半夜の練行がおわるといよいよ「お水取り」の行事がはじまる。これは本尊にお供えする香水を若狭井からくみとる行事で、十三日の午前一時半すぎ後夜の悔過の途中で行われる。一抱えもある大松明を先頭に咒師が青衣・赤衣をつけた神人をしたがえて、二月堂南側の石段を泰楽にあわせて静かに下堂し... 続きをみる
二月堂 お水取り 大松明 3月1日から⒕日にわたり二月堂でおこなわれている修二会のなかで一般に親しまれているのは12日の大松明とお水取りであろう。当日は各地からの信者や参詣人でにぎわう。 大松明 当日練行衆が初夜の練行に上堂する際、「籠松明」と呼ばれている径1㍍、長さ8㍍もある大きな松明が道案内す... 続きをみる
二月堂 お水取り 大松明 十二日の初夜には「かご松明」と称する大松明を道案内として練行衆の上堂する大松明と、過去帳の朗読、若狭井から香水をくみとる「お水取り」の儀式や「走り」「ダッタン」の行法、と言った大行事がある。この日は午前四時頃に行が終わる。 十三・四にも十二日と同様の「走り」「ダッタン」の... 続きをみる
お水取り 二月堂 修二会 3月7日に小観音を礼堂に安置する儀式がある。二月堂には大小二体の十一面観音(秘仏)が本尊としてまつられているが、そのうちの小観音は実忠和尚が生身の十一観音を祈祷され、浪速で迎えられたという一寸八分の観音像で、この観音を内陣から礼堂に移す儀式である。小観音を安置した厨子を秦... 続きをみる
二月堂 お水取り 修二会 この練行が十四日間、繰り返し繰り返し行われるが、五日は実忠和尚の忌日にあたるので、特に天平の昔から現在に至るまで東大寺に関係の深い方々や、この練行に参加した練行衆がたちの名を記した過去帳を読みあげる。十二日にもおこなわれる。まおこのほか走りの行法というのがある。この行法... 続きをみる
お水取り 二月堂 修二会 3月1日〜14日 三月一日からいよいよ本行が始まる。一日は特に午前二時から食堂で行事の戒律を守るために授戒作法があり、その後、二月堂にあがって堂内を荘厳し、火打ち石で浄火をおこし、宝前の常灯に火を点ずる一徳火の作用がある。 本行は毎日正午から夜の零時過ぎまで、日中・日没・... 続きをみる
二月堂 お水取り 別火 ③ この行法に参加す練行衆は十二月十六日、開山堂での法要の前に発表される。決定後はいかなる事があっても変更されないこ とになっている。練行衆にえらばれた僧は、二月二十日から戒壇院の庫裏を別火坊とし、ここにれんぎょうは入る。別火というのはここで使用する風呂やかまど、火針などの... 続きをみる
別火 ② 別火の行法の起源は、実忠和尚が笠置の龍穴に入り、常念観音院で菩薩たちが行っている行法を目撃し、これを人間界の世界にも伝えようとして二月堂を建て752年から始めた。それ以来千三百年近くの間継続された行事で東大寺のなかでも重要なものである。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目... 続きをみる
二月堂の修二会 お水取り 別火2月20日〜28日 別火 ① この行法は東大寺の二月堂の本尊十一面観音に東大寺の僧侶(練行衆という)が斧が犯した罪・けがれを懺悔して、国家の安泰と人々の豊楽を祈る法要で、東大寺の僧実忠和尚によって天平勝宝4年(753)にはじめられた。正しくは「修二会」といい、詳しくい... 続きをみる
鏡昨神社の御田植祭り 2月21日に近い日曜日 が 奈良県磯城郡田原本町 鏡作神社は正しく鏡作坐天照御魂神社 (かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)という。このあたり一帯に住居し鏡の鋳造にたずさわっていた鋳造部の遠祖である祭神とし、古来鏡作りならびに鋳造業にたずさわる人々... 続きをみる
松尾寺の初午厄除大祭 松尾寺は天平の時代、元正天皇の勅願により開創された古刹で、大和盆地を一望に見下ろす松尾山の中腹にある。元正天皇が「日本書記」の編集を、舎人に命じられた時、親王は42歳の大厄であった。松尾山に籠り大業成就を祈願された。養老二年(717)2月、初午の日にわかに東の山に紫雲がたなび... 続きをみる
長谷寺 だだ押し 2月14日 西国霊場の長谷寺の 追儺会を俗に だだ押し法要 という。 むかし 今の白山社の地の悪霊が住んでいて、暮れ六つの貝(法螺貝を吹いて時刻を告げる)を吹くと、必ず悪霊が出て人を悩ましたので、むかしから日常は暮れの貝を吹くことただ一声である。当夜になって修正の法力をもって彼の... 続きをみる
国栖奏 (くにずそう)2月14日 吉野郡吉野町国栖の浄見原神社で「国栖奏」が行われる。国栖奏は国栖舞 翁の舞 とも古い記録に書かれている。 小国家(部族国家)が大和朝廷のもとに統一されたころ地方の部族国家は服従を誓うと共に朝廷の繁栄を祝福するために、朝廷の大義のある時に朝廷においてそれぞれの部族国... 続きをみる
下市の初市 2月12日 吉野郡下市町の蛭子神社(恵比須神社)の祭りと共に開かれる初市は、下市町での年中行事中最大である。 2月12日の宵宮祭の夕刻、大阪西宮戎神社の御神火をいただいてきて、神前に点火してから、午後六時「商売繁盛」祈願の祭がはじまる。 13日は残えびす といって後宴があり三日間にわた... 続きをみる
大和の2月の行事 2月11日 北葛城郡北葛城郡河合町 廣瀬神社の砂かけ祭り。 廣瀬神社は崇神天皇の時代に創建された。廣瀬神社は水の神様として尊信されいる古社である。この地 河合町川合は大和川が合流する地点であり、この地方の郷社であり、明治になって官幣大社になった。 その神様は五穀豊穣を祈っている。... 続きをみる
淀川から見える淀城 大阪から京都にいくと、淀城の石垣が見える。 京都に来たという感じになる。 淀川を上り下りする旅人にとっても格好の目印の石垣でる。この城を築いたのは徳川二代将軍秀忠の命により築かれた。家康 秀忠が征夷大将軍の宣下を受けたのは伏見城であった。その後二条城を公式の場として修理をし、伏... 続きをみる
淀川と酒造り 京都の伏見は酒造りで有名である。 近世に入って酒造株制度が確立されてからの記録がある。 伏見に伏見稲荷大社を開いたのは、秦氏の一族が住んでいた。秦氏の持つ酒造技術と伏見の豊富で良質の地下鉄が存在することで、古くから酒造りがおこなわれたと考えられる。 伏見稲荷大社では、大山祭の時、稲荷... 続きをみる
淀川と牧 淀川に流れてくる支流の源流は山林からが多く 水量も今より多く、川原も広かったと考えっれる。故にそこに牧が設けられた。薬用牛乳を取るために乳牛を典楽寮で飼っていた。また、上牧(かんまき)樟葉牧 交野牧 と言った地名が淀川岸にはあった。(現在は牧だけ残っている地名になっている)そこでは、藤原... 続きをみる
淀川と関所 淀川は難波津が大阪で京都ととの二大都市を結び、大津 山崎 伏見 江口など 重要な港市があり、多くの船が行きかう。そこには多量の物資や人をはこんだ。特に古代においては、全国から集まる租税となる物資 また労働のための人々 渡来人 が集まった。また全国に役人が赴任したり、都に帰任したり賑わっ... 続きをみる
淀川と三川交流 天王山の東大山崎は水無瀬ともいわれていた。多くの船が行きかう交通上の要所であった。まま、風向明媚な場所で 平安貴族の遊楽のばであった。淀川 桂川 木津川の三川合流の 地は一口(いちもつあらい)と呼ばれている。 この三川合流には巨椋池があり 多くの水鳥が阿妻有、それを狩りするために当... 続きをみる
淀川と大和川 淀川と大和川は多くの土砂を川により流してきた。縄文時代 弥生時代には大きな湖であったが古墳時代にはそこ土土砂が埋まって、江戸時代は小さくなっていた。淀川の本流において平安時代の河口は東淀川区江口辺りであったが、今は10㌔以上離れて、瀬戸内海からの船の往来していたことなど想像もつかなく... 続きをみる
淀川河口 淀川の水系としてはの大和川は大和の諸々の川を集めて河内平野に流入、そこから北上して河内を城門弥生時代には、大きな湖にしていた。 上町台地は大和川 淀川の運ぶ土砂が堆積することで出来た。この湖を大河内、凡河内 と詠んだ。現在の守口市 門真市 寝屋川市 大東市辺りは、この大和川 淀川が合流し... 続きをみる
淀川水系 琵琶湖から大阪市まで約75㎞の淀川 歴史的にも重要な役割を果たしている。 琵琶湖から出た所には瀬田川と呼ばれているが、天智天皇の大津の宮 その西岸には淳二天皇と孝謙天皇の保良宮ある。そこから下流になると、宇治川といわれて、加茂川と合流し淀川と呼ばれている。この賀茂川は1500の都であった... 続きをみる
淀川は 古代から川の道 大阪とは関西の中心 大都市である。 しかし 古代においては 沼であった。それが川淀川 大和川の運ぶ土砂により谷町台地が出来 て来た・ 古代においては 津の国 といわれ、難波津といわれた。 難波大隅宮 高津宮 と古代から中世には遷都をくりかえしていた。大化の改新の後 難波津が... 続きをみる
淀川(大川)に並ぶ蔵屋敷 淀川 特に中ノ島には江戸時代ではあるが 各藩の蔵屋敷が立ち並んでいた。 蔵屋敷の建物は土蔵倉をめぐらしていて、白壁であった。そして、その裾はなまこ塀で、壁の厚さが、30〜40㌢あった。また鉄砲窓がついた押戸は換気の役をしていた。蔵の鳴き中は夏は涼しく、冬は暖かく 簡単な方... 続きをみる
淀川の中ノ島 淀屋橋辺りの中ノ島には、江戸期には蔵屋敷がならんでいた。 蔵屋敷には入掘口があって、船が建物にすっと入った。下役人は付きっきりで戸の開閉を見守った。現在大きな有名ホテルは讃岐高松班松平藩があった。また大阪市役所は肥前の唐津藩 常陸の水戸藩の蔵屋敷 日本銀行は肥前の島原藩 金沢の加賀藩... 続きをみる
淀川 下って大川 桜の宮辺りになると、旧事旧跡が多くなる 大川にそって目につくのは有名な造幣局 そして泉布館がある。 東京を都とするか、大阪遷都との二分した明治の時代、天皇の御学問所との目的で、建てられた 泉布館は総石造の建物であって中にはシャンデリアは重要文化財に指定されている。 ■ 住所 63... 続きをみる
淀川と菅原道真 菅原道真が都から大宰府に流される時 淀川を京から難波津へ下り 海路で大宰府に向かった。その途中立ち寄ったり 縁起を持つ天神様が多くある。 その一つに 露天神 がある。この地は鳥飼を離れ河尻に行くと、曽根州といわれ孤島になっていた。そこに曽根神 といわれる小さな祠があった。下る途中に... 続きをみる
淀川と管原道真 901年菅原道真は大宰府への左遷。 文章博士を父に持つ、道真は学者の血を受け継ぎ、少年時代から誉れが高く、官僚になってからも順調な出世コースを歩んだ。宇多天皇の信任高く、右大臣にまでなった。それを恨んだ藤原時平の陰謀といわれていますが、道真は大宰府に行くことになりました。 その道真... 続きをみる
淀川 淀船 小型で動きの速い淀船は、渇水時期や浅瀬で大船より荷物を積みかえて活躍した。そのため淀船を上荷船とも呼んだ。淀船は淀(水垂と納所)一口(いちあらい)吐師(はせ) 木津 加茂 瓶原(みかのはら)の六ケ所から就航範囲は 木津川の笠置 宇治川は宇治山之内 桂川は嵯峨 淀川では大阪 尼崎までまた... 続きをみる
淀川の淀二十石船 豊臣秀吉は、淀納所の川村与三右衛門と木村惣右衛門に朱印状を与え,川船支配を許可した。その頃、百隻程もあったといわれる三十石以上の大船は、航行権を認められた船というので、過書船と呼ばれた。過書というのは関の通行手形だか、次第に過所(書)を与えられた船を呼ぶ名となったと思われる。 1... 続きをみる
淀川と秀吉 大阪へ支配を広げることを考えている秀吉は、京都 大阪を結ぶ淀川の重要性を認識していた。山崎の城は西へ支配を広げる構想の一端でもあった。秀吉は城の工事を、弟の秀長に任せ、補佐に信任の厚い 細川忠興をつけた。そのことから秀吉がこの城をいかに重要視していたかが分かる。 ■ 住所 630-... 続きをみる
淀川と秀吉 本能寺の変の後、明智光秀を倒した、秀吉は天下人となり、淀城を築く前に、山崎(淀川右岸)にも城を構えている。城は小規模であったが天守もあったといわれていて、二か月足らずで完成したと言われている。そして淀川の対岸八幡にも城を建てたという。 光秀を山崎合戦で破った後は、天下を狙う秀吉の布石は... 続きをみる
淀川と継体天皇 二十六代継体天皇は。応神天皇の五世の孫とされる。 継体天皇は越前三国君だった。継体天皇は大伴金村、物部氏 らに迎えられて 今の枚方樟葉宮で即位した。 継体天皇の宮跡は樟葉以外に三宮跡 筒城宮ー京都府綴喜郡 弟国宮(おとくにー向日市 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみやー桜井市 と四宮跡... 続きをみる
淀川 百済王 天智天皇が白村江のでの戦いに敗れ、帰化した百済王一族はよく朝廷に仕えた。文政 仏道功績があり、聖武天皇から 先祖の霊を守るように命じられた。そこで造営されたのが、百済王神社であり、百済寺であろう。 帰化人 渡来人は差別待遇を受けることが多かった。しかし、大仏造立の資金不足に行き詰った... 続きをみる
淀川 百済寺 百済寺を建てる前から百済民族の来朝が盛んで、古代の枚方や大和 山城の南に移り住んだ。そのなかで、博士王仁(わに)王仁は応神天皇に論語(十巻)千字文(一巻)を献上した。わが国に初めて文字を伝えた。雄略天皇の時代には、陶工 鞍工 画工 が継体天皇の時代には 五経博士が渡来し、欽明天皇の時... 続きをみる
淀川 百済寺跡 淀川の支流天の川の枚方市中宮の川岸丘になったところがある、そこは標高30㍍の高台になっており、百済百済寺跡がある。旧寺は160Ⅿ四方で東西両塔があった。東西両塔を取り囲む形で廻廊があった。今も両塔の土壇が残り、礎石もある。奈良薬師寺式伽藍とされてきたが、新羅、咸恩寺とよく似ている。... 続きをみる
淀川 くらわんか舟 くらわんか舟既得権優遇は 山崎も合戦の際、秀吉のために唐埼村の大河原で川渡しをした。 1653年朝鮮通信使のために枚方に出張した七隻が飛脚船の役割をはたした。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ 0742-43-8152
淀川 くらわんか舟 くらわんか舟の発生の通説は 枚方から淀川対岸の高槻柱本といわれている。 江戸時代 石清水八幡の遷宮時に参拝者を目当てに 柱本から煮売船が出た。これがくらわんか舟の始まりと言われている。その後 寛永年間(1624〜44年)柱本から1隻を枚方に移したところ、地形的な優位性もあり、繁... 続きをみる
淀川 枚方 くらわんか舟 帆かけ舟型の料理皿に山海の魚介類を盛った「くらわんか料理」を出している料理屋があった。 十返一九の『東海道中膝栗毛』に「船はやや枚方といえるところに近くなりと見え、商船(くらわんか舟)ここにこぎよせ、飯くらは(わ)んかい、酒のまんかい。さあさあみな起きてくされ、ようふる奴... 続きをみる
淀川 枚方宿 枚方宿は、徳川御三家である紀州家の定宿として活況を呈していた。紀州家宿泊の折は宿内を清掃してきれいにし、近くの人々が見物で賑わい、それを、紀州祭といわれたほどであった。枚方本陣は淀川左岸に477坪もあったが、今は本陣跡の案内板が立っている。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七... 続きをみる
淀川の枚方宿 枚方宿は、淀川川往来の畝運で賑わうとともに、街道として宿場としても栄えた所でもある。1601年、泥町、三矢、岡、岡新町の四村をもって枚方宿と定められ、東海道の延長として、大阪に通じる重要な宿駅として繁栄した。宿場は1.5㌔のながさにおよび、遠見遮断の曲折した道筋に本陣・脇本陣・馬継所... 続きをみる
朝鮮通信使の事件 この事件は、国際的なものであっただけに、人々の話題になり、1767念世話料理鱸包丁 というタイトルで、道頓堀角で上演され、大入り満員になった。しかし、上演されたのは、2日間。三日目には町奉行によって公園が止められらた。そして、ほとぼりの覚めた1789年に 漢人漢文手管始 と題し ... 続きをみる
朝鮮通信使の事件 淀川を行く朝鮮通信使が徳川政権になってはじめて使節団が来日したのは1607年。 そのなかで、大阪で事件がおきた。 1764年十代将軍家治の将軍襲職を祝って来日した使節団が、大阪に立ち寄った時に、4月6日の夜、崔天宗という道中目付が喉を突かれて殺させた。殺したのは対馬藩の鈴木伝蔵と... 続きをみる
淀川 過書船 朝鮮通信使 1719年の離宮八幡宮は朝鮮通信使の一行は正副使ら四百人を越えた。一行の船団は楼船四隻で、出迎えの大名の船七隻、幕府役人や献上品を積んだ船などを合わせると、大小81隻。朝鮮通信使らが乗った楼船は黄金飾りのうえ、繻子緞子の幕を張りめぐらした豪華なモノであった。 ■ 住所 6... 続きをみる
過書船 朝鮮 琉球からも 朝鮮通信使 琉球慶賀使も徳川期に淀川を上下していた。将軍が代替ごとに朝鮮から慶賀使が来ることになっていた。これが、朝鮮通信使である。また琉球は1609年薩摩の島津氏に征服併合されたが、やはり 将軍の代替りごとに琉球慶賀使を江戸に送った。瀬戸内から 大阪に入り、淀川を京都に... 続きをみる
淀川 過書船 三十石船が淀川をさか上がる場合、帆、櫂以外に両岸から綱で引っ張り上げる必要があった。そんな箇所が淀川航路に九ヵ所もあった。下流から順に挙げると、右岸の天満橋南詰・川崎間4㌔ 右岸の鳥飼堤・柱本・三島江まで8㌔、 左岸の枚方付近約2㌔ 右岸の大塚付近0.3㌔ 右岸の鵜殿付近数百㍍ 左... 続きをみる
淀川 過書船(かしょせん) 淀川を上下する過書船は豊臣筆吉が営業の許可出した。 1603年には徳川家康が朱印状を与えて営業許可を再度確認し、運上料として運賃を規定。「過書」は関所を通過する免状で、これを備えた船を 過書船といった。古代には 過所 といい 過書とは別に 宿次手形 路地手形 勘過折紙 ... 続きをみる
淀川の過書船 八幡は京都 大阪の中間的な感じがする。 江戸幕府の活発な交通政策の推進によって、京 大阪周辺では宿場 駅馬が整備された。この時代、淀川は人口30〜40万人の巨大都市であった大阪と京都を結ぶ大動脈であった。諸国大名の参勤交代の行列に混じって農 工 商の庶民も旅行した。古代には貴族や権力... 続きをみる
橋本の渡し 淀川 八幡市の橋本と対岸の大阪府三島郡の間のには昭和30年代まで橋がなかった。そこを結ぶための、渡し船があった。橋本渡しは淀川西岸の山崎街道と、東側の石清水八幡宮領内への道や河内への道を結ぶ重要な交通機関であった。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ ... 続きをみる
洞ヶ峠と木津川 NHK 大河ドラマ 「豊臣兄弟」が始まりました。 秀長は大和郡山城主 その秀長が城主になる前の城主は筒井順慶であった。 順慶が大和を治められたのは 明智光秀の手助けにより、信長の傘下にはいり、信長から大和をを治める命をうけたからである。 その順慶は本能寺の変の後 光秀から 援護... 続きをみる
木津川の流れ橋 八幡の三川交流の木津川に架かっている橋は、洪水で流されても再びロープを引き寄せて繋ぎ合わせれば元に戻る仕組みになっている。そこで 流れ橋 と言われている。 時代劇のロケ地として 水戸黄門 必殺シリーズなどでもよくこの橋は使われた。 今はこの橋は人々が観光で歩いたり出来る様になってい... 続きをみる
佐保川 奈良の中を流れる川 京都八幡の三川交流 鴨川 桂川 木津川のうち 木津川の源流近くに 佐保川も流れ続いている様な川の感じがする。 この川沿いを 平安時代には藤原道長は 春日大社 そして吉野へお参りへの道であった。 また この川の東側には 山之辺の道があり 古代から人々の往来には必要な川であ... 続きをみる
2日続けて川のことブログしました。 奈良の中心を流れる佐保川 この川に掛かっている橋 多くあります その一つが 高橋 という名前です。高橋神社もあります。 古代においては 川は土砂や木々など運びます。それが堆積して岸がどんどん高くなるので 橋も必然的に上げていき 高い橋 すなわち高橋 なりました... 続きをみる
淀川は枚方市の丘に百済神社がある。その下に天の川が流れそれは淀川に合流している。 この天の川は交野市にある くろんど池から北側にながれ くろんど池を源流としている。同じく くろんど池を源流として南に流れているのが 富雄川である。今は切れている。 古代においては、大陸からの渡来人は百済神社を目当てに... 続きをみる
新年あけましておめでとうございます。 今日は藥師寺への参拝されている方多くみました。 その藥師寺から東に秋篠川があります。この川は古代にはモノを運ぶ交通網として重要な役割がありました。 秋篠川を南に行くと ほぼ直角に曲がっています。佐保川と合流させるために、川の流れを工事により変更しています。その... 続きをみる
除夜の鐘 藥師寺 東大寺など多くのお寺で一般の人々の参加で除夜の鐘を撞くことができます。 整理券を配ったりしてるお寺もあります。 想いをはせて 清らかな心で新年をお迎えください。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ 0742-43-8152
正月 金堂の薬師三尊と共に 秘仏である 吉祥天像 も飾られお詣りできる。 顔は太い眉や肉付きの良い頬 引き締まった口とも天平美人そのものである。透き通るような多彩な衣装を身に付けている。右手伏せて胸前に添えられて 左手赤い如意宝珠を持っている。穏やかな顔付 優雅で艶美な姿である。 ■ 住所 630... 続きをみる
藥師寺年末行事 本日29日に薬師三尊像などの 積もった埃を払う お身ぬぐいが行われ お正月準備を整えます。大晦日には 越年お写経会 が行われます。午後8時から午前2時まで新年を迎える心の準備を行います。 人が持つ煩悩を清めるための除夜の鐘を撞きます。一般の人も撞くことが出来、23時より整理券を配り... 続きをみる
花会式 鬼の御馳走 花会式の最後の鬼追い式では鬼は5匹松明を持って金堂の周りを暴れまわる。 その鬼達に式に入る前にお酒を出す行事がある。それは秘伝として信者に引き継がれている。 酢の物 ほうれん草をゆで鬼の角の形に切って酢レンコンと一緒に盛る。煮しめは高野豆腐 シイタケ 人参 レンコン 湯葉を含... 続きをみる
花会式 ② 花を飾る 供える また堂内を花で飾るその花は生花であっただろう。それが造花に変わった時期は堀川天皇の皇后が病気平癒したことで、まさしく薬師如来の御利益であっただろう。花 植物 薬草の効能とあわせていかんがえたであろう。平安時代の後期から生花から造花に変わったかについての理由は今は明確な... 続きをみる
吉祥天像 吉祥天は古代インドの女神 ラクシュミー のことで除災 増益 国家安泰 五穀豊穣 天下泰平 風雨順次を祈念し信仰されている。麻布の描かれた美人画としか思えない情緒が感じられる。 1951年に国宝に指定される。1月1日から3日金堂藥師三尊像の前に安置される。普段は非公開である。 ■ 住所 6... 続きをみる
花会式 花会式は創建された天武天皇 持統天皇が崩御された後 堀川天皇が皇后の病気平癒を、祈願して、1170年から起こった行事と言われている。金堂の薬師如来に十種の造花で荘厳と飾られるので「花会式」の名がある。もとは旧暦1月末からの行事であったが、現在は3月末に始まり最終日には 「呪師走り」で堂内を... 続きをみる
藥師寺 吉祥悔過 金堂 年頭27日間の行事 吉祥懺過の後半7日間は金堂おkpなわれる。「金堂吉祥御願練行衆請定」という法会に参加する僧侶への招待状が1542年から1867の間全てではないが残っている。また春に行われる 花会式としての 修二会に関する文章も1717から1850のものが貼り繋がれている... 続きをみる
藥師寺年頭行事① 27日間の「吉祥悔過」(きちじょうけが)が行われる。休ヶ岡八幡宮で最初の7日間である。 吉祥天へ礼拝し、懺悔しそして祈ることである。「八幡宮吉祥悔過荘厳預差定状」という文章がある。1735年から1830年の各年のものが続いて現存している。 ■ 住所 630-805 奈良県奈良市七... 続きをみる
休ヶ岡八幡宮 藥師寺の南川に南側に休ヶ岡八幡宮は寛幣平年間(889〜98)に別当紹によって豊後国(大分県)宇佐八幡から勧進された八幡神である。仏教は外国から入ってきたもので、奈良の大寺は神を門前に勧請し仏教の繁栄を祈った。日本の神々は仏教伝来以降 神と仏をうまく和合させた。日本の神の中で一番早く仏... 続きをみる
藥師寺 建物復元 藥師寺は他の社寺仏閣同様 長い歴史の中で、焼失 災害などにより、建物の多くが被害を受けている。明治になると、古社寺保存法の制定により、東塔 東院堂 八幡宮 南門などの建築 解体修理が行われた。しかし1960年代以降写経勧進により伽藍の復興事業が行われた。藥師寺の景観を創建当時にす... 続きをみる
藥師寺 西塔 1981年昭和56年再建された西塔は1528年(享保元年)9月7日に焼失。その後再建されるまで礎石をのこしたままであった。西塔は東塔を手本としているが、伝統的な木造建築の工法であるので 創建当時を復元している。藥師寺は東塔の平成の大修理も行われ、総ての伽藍が再建された様におもわれるが... 続きをみる
藥師寺 双塔 東塔は創建当時より現存している。西塔は昭和56年(1981年)に再建されている。 東塔はお釈迦様の教えである経典(法身舎利)が祀られているため、経塔(きょうとう)、西塔には遺骨(真身舎利)が祀られているため、舎利塔(しゃりとう)という。 藥師寺には二つの塔が建てられた最初の寺である。... 続きをみる
藥師寺 東院堂 東院堂は長屋王の創建であると考えられている。長屋王は吉備内親王の夫であり、吉備内親王は元明天皇の皇子で、元正・文武天皇の妹に当たる。元明天皇は藥師寺を藤原京から平城京に移された方である。平成22年が平城遷都1300年にあたる。元明天皇の崩御後一周忌にあたる養老年中(717〜24)に... 続きをみる