2022年4月のブログ記事
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万葉集に 「平山の峯の黄葉取れば散る 時雨の雨し間無くふるらし」 ほか、五首がおさめられている平城山について専門家の間では問題となっているが、 一般的には大和(奈良)と山城(京都)との国界となっている佐保山と佐紀山をあわせて平城山(ならやま)と考えるが妥当であろう。 平城山は、地形からす... 続きをみる
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若草山 現在芝原となり、三つの笠が重なっているので一般に三笠山とも称されるが、古くは葛尾山と呼ばれ樹木が茂りあい、天平勝宝八年(756)に描かれた東大寺山界四至図に東大寺の西大門の南から若草山に登る道が描かれており、とくに若草山とも葛尾山とも記されていないので、この辺りにも樹木が茂っていたと考えら... 続きをみる
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戦国時代、松永久秀がふたたび東大寺大仏殿に陣取った三好氏と戦い、大仏殿を焼いた。それ以来大仏さまは百四十年間露坐となっていたのである。なお、そのうえ奈良に大きな打撃を与えたのは、天下を統一した豊臣秀吉であった。 大阪城を築いた秀吉は、この城を関東の豪族から守るため、郡山城に弟秀長を百万石の大名とし... 続きをみる
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王朝文化の移入 新しい王朝の文化が、主として春日神社 と興福寺を中心にうまれたということである。春日神社は藤原氏の氏神、であったし、春日神社の神官や興福寺の門跡は藤原氏関係の人がなったために、王朝の文化を育てた。その一つは春日社殿であり、宝物館におさめている宝物であろう。 平重衛の南部焼打ち ... 続きをみる
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現在中街道と呼んでいるのは奈良市京終口から神殿町・北之庄町を経て横田町に至り、二階堂で大和郡山市からの道路と合し、昔の下津道は田原本町・八木町から橿原市に至る道路をいっているが、国道2424号線(旧)(中街道)が拡張以前は北之庄から井戸堂を経て、備前・海知・江包などを経て香久山の東から橘寺に通じて... 続きをみる
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奈良時代に大和平野を南北につうじる道路として上津道、・中津道・下津道がああった。現在上街道と呼んでいる街道は奈良時代に上津道と呼ばれていた道であろう。時代のすすむにつれて農耕を主とする生活の展開によって集落は平坦に移り、各所に誕生した集落を結ぶ道路が開けて上津道・中津道・下津道となり、上津道を上街... 続きをみる
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もう一歩 奈良のこと知って旅しませんか? レアな情報を知って より一層楽しいくしましょう。 「日本書記」武烈天皇(第25代天皇在位499~506)の条に 布留をすぎ 薦枕(こもまくら)高橋をすぎ、物多(ものさわ)の大宅をすぎ 春日(はるひ)の春日(かすが)をすぎ 妻籠(つまこも)る小佐保をすぎ... 続きをみる
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大和高原の麓に展開する大和盆地の東北部にあたるところで、大和高原に接する丘陵地帯は奈良市のなかでも早く開けたところといわれ、和珥氏の一族である大宅氏や小野氏の一族が住居下と伝えられ、丘陵地には六世紀から七世紀にかけての古墳郡がある。 大和平野に農耕が発展するにつれて集落がつぎつぎにできて、これから... 続きをみる
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奈良の東部 奈良市の東部を 東山(ひがいやま)と呼んでいる。地理的には大和高原」といわれいるところで、標高300㍍から500㍍といった山地で南から北へと傾斜し、起伏のあまりない波状的な山地で、布目川・今川・白砂川・などはそれぞれ平地(田原 大柳生 柳生 阪原 pr巴地(おうじ)須川 狭川 など)を... 続きをみる
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このあたりは平城京の一条三坊にあたるところで、称徳天皇が東大寺にならって創建された西大寺のあるところである。 西大寺は称徳天皇が藤原仲麿の反乱があったので、再びこうした不祥事がおこらないようにとの念願から国家鎮護の仏像とされている四天王像の造立を発願されたとのがこの寺の濫觴となったように西大寺の資... 続きをみる
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天理市に出来た施設です。 奈良の歴史の体験型施設です 奈良の知識を持って奈良を楽しんで下さい 今日の薬師寺と桜 「本のある喫茶店 うのん」今月のお知らせ お休み予定 4月 4日(月)5日(火) 11日(月)12日(火)13日(水) 17日(日)18日(月)19(火) 25日(月)26日... 続きをみる
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佐紀・西の京丘陵・矢脈山脈・といった北西部のところを奈良では西山と呼んでいた。この北西部方面に早くから人々が住みついたようである。昭和52年3月、佐紀池の発掘調査がおこなわれたとき、縄文時代の土器の破片が発見された。これだけでは縄文時代に人々がすみついたと考えられるのは早計であるが、平城京の西・南... 続きをみる
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平城京の」一条大路で、東大寺の転害門から西にのび、平城京に通じる大路である。奈良時代創建の総国分寺東大寺と総国分尼寺法華寺を結び、沿道には、大宮人たちの住居のあったところで、当時大宮人が桜かざし、万葉集をひもとけば明らかである。平安遷都後も、京都、大坂北部からの交通の要路であったこちょは、枕草子、... 続きをみる
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この街道は明治18年国道49号線となり、さらに大正9年4月に国道15号線となった京都と奈良を結ぶ重要な道路である。 平城に都を遷され、平城京が計画された際、京東へ三坊fがひろげられ、この道路がその京街道となり、東大寺と興福寺がこの道路を境界として計画された。それ以来、この道路は東大寺、興福寺の建立... 続きをみる