「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

「うのん」の気象歳時記ブログの新着ブログ記事

  • 奈良漬け 本場の味

    外部資料 漬物は貯蔵食品として古くからあったと思われるが、景行天皇のころに、すでに塩漬けが行われていたとも伝えられている。今から千年余り以前に書かれた「延喜式」(宮中の年中行事の儀式や飲食生活について記載されている)の中に「糠漬瓜九寸 、糠漬冬瓜一石」などの文字があり、そのほかナス、ワラビ、フキ、... 続きをみる

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  • 大和いちご 日本一のイチゴ

    外部資料 「おとめの唇」と形容され、真っ赤で果肉が柔らかく、甘酸っぱいイチゴ。麦の収穫が終わるころの初夏が旬といわれ、麦わらで編んだかごを持ってイチゴ狩りをした。 奈良県農業試験場によると、奈良県にイチゴが入ったのは大正の初期で、信貴山のふもとでつくられていたらしい。その後、昭和の初めごろに郡山の... 続きをみる

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  • 黄色い「もみうり」大和の郷土料理

    外部資料 キュウリの原産地は東インド。わが国へは平安時代に中国から渡来したと伝えられ、「空売り」といった。 キュウリは中国で「黄瓜」(ホワンカオ)といい、字のとおり昔は黄色く、皮をむいて縦半分に切り、種を取り除いて食べ方をしたものです。 昔は、キュウリの食べ方は「もみうり」と「古漬け」であった。 ... 続きをみる

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  • 春雨 大和の味

    外部資料 大和には桜井市と御所市に製造工場があって、全国の60%以上が生産され、大和の地場産業の一つである。 「はるさめ」のルーツは中国で、わが国には禅寺の精進料理として鎌倉時代に伝来したといわれている。中国では粉条子(フンジョウツ)といい、緑豆のでんぷんを原料としてつくられる。明治から昭和の初期... 続きをみる

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  • 大和名物 わらび餅

    外部資料 「わらび餅」の原料はワラビの根からとるでんぷんである。 ワラビは全国至るところの山野に自生しているが、「わらびもち」は古くから奈良の名物として、そのひなびた味が知られている。 室町時代の物売りの絵図に、天秤棒で浅い桶を担いだ「わらびもち売り」の姿があり、かなり昔から庶民に食べられていたと... 続きをみる

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  • 大和の味 昔のおやつ

    しきしき焼き 外部資料 しきしき焼きとは、メリコン粉を水で溶き、少し砂糖を加えてフライパンで薄く焼いたもので、上等のしきしき焼きには卵が入っている。焼きたてをくるくる巻いて食べる。ホットケーキの薄く焼いたものではあるが、ベーキングパウダーも入ってなく、甘みも少なく クレープのようなものである。 洋... 続きをみる

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  • 大和の 味 大和西瓜

    外部資料 原産地は熱帯アフリカといわれている。我が国に伝来して、戦国時代には大和平野に広がったとのことである。ローマを経て、「海のシルクロード」を渡り、琉球(沖縄)から薩摩(鹿児島)、大和へ渡ってきたとの説である。西の方から来たところから、「西瓜」、また水分が多く、英語のウォーターメロンから「水瓜... 続きをみる

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  • 柿の葉寿司 奈良の味

    外部資料 夏の終わりころになると、柿の若葉がみずみずしく大きく広がってきて、大和の国中から南の方、御所や五条、吉野地方の農家では柿の葉ずしをつくり始める。夏祭りから柿の葉が赤くなる十月末ごろまで、この地方では晴の日(ふだんと違う改まった日のこと)のごちそうとして夏祭り、盆の「やぶ入り」、秋祭りなど... 続きをみる

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  • 七夕に食べる素麺

    七月七日は五節供の一つ「七夕さん」である。この夜に、天の川をはさんで牽牛星と織女星が白鳥座辺りに群れをなして飛ぶカササギびよって一年にただ一度逢うというロマンチックな星の伝説は、中国から奈良の都に伝えられたものといわれている。やがて、この伝説が農民の実生活と結びついて、牛を引く彦星は食料を生産し、... 続きをみる

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  • 大和の味 桜の花と葉の塩漬け

    経今日の風景 奈良の枕詞 青垣 です 大和は至る所桜の名所がある。とりわけ。奈良公園 大和郡山城跡 御所市の葛城川堤防、大和高田市 大中の高田川堤防 吉野山 平城宮跡 また多くの神社仏閣の桜もそれぞれに見事なものが多くある。八重桜は奈良の県花である。 桜で有名な吉野の名物の一つに「桜の塩漬け」があ... 続きをみる

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  • 国中の小麦餅(さぶりな餅)

    大和盆地の中央・飛鳥遺跡で知られている橿原市周辺を、大和では国中(くんなか)と呼ぶ。 国中では、 農家の麦の収穫が終わると、その後の田に水を張って田植えをする。田植えの仕事が一段落したとき、新しく収穫した小麦で小麦もちをつくる。これを早苗饗餅(さなぶりもち)という。東北方面では「さなぶり」、四国九... 続きをみる

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  • 奈良の茶粥 と茶飯

    外部資料 茶粥は、「奈良茶」「奈良茶粥」ともいわれて、古くから大和の人々の常食となってきた。 「お水取り」で知られている東大寺二月堂の修二会の錬行僧は、毎年二月二十日から試別火にこもられ、満行まで精進潔斎の生活を続けられるが、毎日決まった食事の献立の中に「あげ茶」とか「ごぼ」、昼食に「茶飯」などの... 続きをみる

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  • 奈良の食べ物 大和茶

    パソコン調子悪く ブログお休みしてました。  大和茶 外部資料 立春から数えて八十八日目を「八十八夜」といい、暦「では五月の一日か二日にあたる。 このころになると、もう霜の下りる心配もなく、茶の若葉も伸びて、茶摘みの目安とされている。 中国では茶の歴史は古く、太古の伝説では「神農が百草を嘗めて日に... 続きをみる

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  • うのん から 水無月のお知らせ

    お薦めの本 今NHKの大河にも出てくる 義経ゆかりの吉野 兄の源頼朝と仲違いの末 奥州を目指し、静御前と永遠の別れをした地でもある吉野 神様が住んでいそうな吉野を紹介されてます。 6月のお休み予定 6日(月)7日(火) 13日(月)14日(火) 19日(日)20日(月)21日(火) 27日(月)2... 続きをみる

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  • 東大寺 界隈 二月堂 3

    二月堂燈籠 の土鈴 二月堂の境内に立っている「祠堂舎寄進」の石碑や石燈籠がところ狭しとたっている。 堂の廻りには円形燈籠十八基は文政六年(1823)から、明治を経て現在に至っている。いずれも信者から奉納されている。また近代的な燈籠も奉納され、信仰の厚さを偲ばせる 堂の廻りには大絵馬が奉納されている... 続きをみる

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  • 東大寺 界隈 二月堂 2

    外部資料 二月堂の有名な行法は千三百年間休むことなくつづけられてきた東大寺僧侶の修業の道場として有名であるが、また一般信仰の厚い堂で香煙の絶えることのないことでもうかがい知ることが出来る。お百度と称しこの堂を百回回って祈願される姿は常に接する風景であり 本堂に備えられている竹の回数札や、この堂に奉... 続きをみる

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  • 東大寺 界隈 二月堂 1

    二月堂は奈良市で最も大衆の信仰の厚い堂といわれている。そればかりであい堂といわれている。そればかりでなく、全国に「おたいまつ」「おみずとり」の行事でその名の知られているお堂である。 この堂は良弁僧正の高弟であった実忠和尚が笠置の龍穴で観音菩薩たちが修業していた様子を拝し、これを人間の世界にも実行し... 続きをみる

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  • 奈良公園と鹿

    外部公園 鹿が奈良公園にいなくなったら、公園はどんな景観を呈することになるであろう。公園の芝生はのび、雑草も繁り、奈良公園の姿は大きく変わることが想像される。奈良公園の姿は大きく変わることが想像される。奈良公園の芝生によって生命を保っているのである。 奈良公園の芝はノシバと呼ばれ、相当の刺激を与え... 続きをみる

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  • 興福寺 猿沢池 五十二段と六道の辻

    猿沢池の北東に興福寺へのぼる石段がある。五十二段と呼ばれている。歩いてみると、五十二の石段からなっている。五十二というのは仏門にはいる修業の階段といわれ、善財童子が五十二人の知識人を尋ねまわったという故事にならってこの石段がつくられたのであろう。この石段をのぼると三条大路で興福寺の南門につながり、... 続きをみる

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  • 唐招提寺 5月19日

    唐招提寺は聖武天皇の招きで12年間種々の苦難にあい、ついに失明したにもかかわらず、仏法を広めるために生死を考慮せず一生をその布教に捧げた中国の僧・鑑真が創立した私立の寺院で、仏教界でも戒律のもっとも厳しい律宗の寺といわれている。 奈良時代に建立された寺で創建当時の金堂・講堂・経蔵をはじめ数々の宝物... 続きをみる

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  • 興福寺 南円堂

    奈良猿沢池の左側の石段をのぼると八角の堂がある。南円堂でその北側に北円堂がならんである。 この堂は藤原冬嗣が弘仁四年(813)藤原氏の北家の隆盛祈願のために創建された堂で、本尊を不空羂索観音菩薩とし、多聞天 愛染明王などを安置している。 不空羅索観音といえば仏名に示されている通り、多くの人々を大悲... 続きをみる

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  • 興福寺 五重塔

    奈良時代に30余もあった塔も、再興された薬師寺四塔となったが創建当時の面影をとどめているのは、薬師寺も東塔と興福寺五重と三重塔だけで、猿沢池に美しい姿を投影しているこの興福寺の五重塔は光明皇后の御願になる塔で應永年間」(1394~1428)に再建され観光奈良のシンボルとなっている。 現在の興福寺の... 続きをみる

  • 奈良と日露戦争 陸軍五十三連隊

    明治42年(1909)は奈良にとっては忘れることのできることのできない年である。 前年の41年には陸軍の大演習が大和平野に展開され、42年には国立奈良女子高等師範学校・陸軍五十三連隊が設けられ、奈良ホテルが観音山(鬼園山)にたてられるといった画期的な年であった。そのほか春日野グランド実地調査(43... 続きをみる

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  • 柳生の里

    大部は山地で、そのなかに布目川や今川にそって開発された柳生の里は、六世紀の頃から人々が住みついたようで、塚穴と呼ばれた古墳があり、孝徳天皇の御代おこなわれた大化の改新でおかれた大和六県のなかに「楊生」の地名が記されており、柳生の歴史は古い。平安時代には藤原氏の所領となり、藤原頼道は所領となったが、... 続きをみる

  • 奈良公園の鹿

    奈良公園の光景には鹿があちらこちらにいる。 鹿は世界中どこにでも棲息していたようで、狩人にとっては獲物として最良といわたほどで、鎌倉時代、富士の裾野でおこなわれた有名な狩りも、相手は鹿であった。 しかし、これとは別に白鹿は神の依代として崇敬された。年末にやってくるサンタクロースもカモシカに乗ってく... 続きをみる

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  • 春日大社鳥居鳥居

    外部資料 平城京の三条大路が七坊大路と交わるところにあるのが春日大社の一の鳥居で、ここから春日大社の参道が真直にのび、鳥居の右側に春日大明神が鎌時代に翁の姿となり翁舞を演じられたと伝える影向の松があり、春日若宮おん祭の際は、この影向の松に対し、細男・猿楽・田楽といった諸芸能が演じられ、この一の鳥居... 続きをみる

  • 大安寺 2

    大安寺の境内に竹が植えられている。 竹で温めた酒がガンの予防に有効であることがわかり、古くから九州地方の農家で山仕事や農作業の際、竹筒で酒を温められている風習のあるため、大安寺の再興に工夫に工夫を重ね、有職者との懇談の結果、考え出されたのは ガンにかからぬ予防として笹竹をふるまうことである。 笹竹... 続きをみる

  • 薬師寺 2

    薬師寺の飛鳥(橿原市)から今の移築について 薬師寺縁起のなかに「薬師寺の金堂の跡は本これ龍池なり、件の龍をば勝間田池に祀り移さしめ 小石をもって池を埋め その上に金堂を立つ。即ち天皇の御師柞蓮法師入室して龍宮の様を見てこれを模すなり」とある。 薬師寺には、龍王をまつる十八大龍王神社があり、勝間田池... 続きをみる

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  • 薬師寺

    薬師寺は交通の関係から裏から入る人が多いが、南門から入るのをお薦めする。 この寺は平城遷都とともに飛鳥にあった薬師寺を養老二年(718)に西の京に移された。大官大寺(大安寺)と朱雀大路をはさみ、六条大路に並んで建てられた。 大安寺は下記の地図(明治20年 うのん所蔵)南門前道は薬師寺南門前につうじ... 続きをみる

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  • 奈良晒

    奈良晒といえば一般的に余り知られていないが、江戸時代には奈良町の特産といわれ、奈良町の人々の90%はないかしらのこの奈良晒に関係していたといわれるほどであった。 貞享年間(1684~87)に「奈良曝」には「曝蔵方28軒 曝問屋方32軒 青芋問屋6軒 布モミヤ六軒 曝屋24軒 曝数合30軒 布中買6... 続きをみる

  • 大安寺 1

    外部資料 聖徳太子が平群に熊凝の精舎を創建され、欽明天皇の御代に百済に移り、百済寺となり、さらに天武天皇の御代に飛鳥の里に移され高市大寺=大官大寺と称せられ、元明天皇の平城遷都とともに現地に移って大安寺と称された国家の勅願寺であり、学問の寺であった。 「大安寺伽藍縁起流記資財帳」によると、その規模... 続きをみる

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  • 奈良町の 地蔵菩薩様

    奈良にはいたるところに地蔵菩薩が安置されている。般若寺から奈良坂町にかけてノ地蔵菩薩や寺の地蔵菩薩は彩色されている。囲いの中に安置されている地蔵菩薩も少なくないが、町角や雑草の中に立っておられる露坐の地蔵菩薩の姿に心が引かれる。 雨風にさらされても、鳥が頭にとまっても、子供たちがいたずらしても、だ... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から 皐月のお知らせ

    今月のお薦めの本 奈良公園は町の中に 月瀨村は 梅で有名です。 じっくり ゆっくり歩いて見るのがお薦め場です 今月の休み予定 5月 2日(月)3日(火)   9日(月)10日(火)   15日(日)16日(月)17日(火)   24日(火)28日(土)   30日(月)31日(火)   臨時営業 ... 続きをみる

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  • 道しるべ 奈良町

    奈良の町の四辻や神社、仏閣の近くには また郊外に「右奈良 左高野」「右なら 左伊勢」「左大仏 右二月堂」などといった石の道しるべがたっている。主に江戸時代のものが多い。現在、字が読みにくくなっているものも多くある。 このような道しるべに刻まれた字は、当時の世相を表わしている。江戸時代には、よくお家... 続きをみる

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  • 奈良町の道

    奈良町の道を歩いていると道幅が狭いと感じる。 平城京では大路は24㍍(八丈)小路は12㍍(四丈)といわれ、朱雀大路は最も広く84㍍、これにつぐものは二条大路36㍍といった大きさで、大路の両側には約2㍍の築垣をつくり、築垣の前に犬行とよばれる空地を設け、さらに、その前に溝を通じしていたので、実際に歩... 続きをみる

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  • 平城山(ならやま)奈良の山

    万葉集に  「平山の峯の黄葉取れば散る     時雨の雨し間無くふるらし」 ほか、五首がおさめられている平城山について専門家の間では問題となっているが、 一般的には大和(奈良)と山城(京都)との国界となっている佐保山と佐紀山をあわせて平城山(ならやま)と考えるが妥当であろう。 平城山は、地形からす... 続きをみる

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  • 平城京と佐保川

    平城京遷都の際、藤原京から、物資が佐保川を使い運ばれたと万葉集にみることが出来る。 「大君の御命かしこみにきびにし家をすて・・ 奈良の京の佐保川に い行き至りて」と記されている。 「猿穂河(さほかわ)の 小石踐渡り ぬばたまの  黒馬の来る夜は 年にもあらぬか」 「千鳥なく 佐保の河門の 清き瀬に... 続きをみる

  • 佐保川 奈良の川

    佐保川 外部資料 佐保川は 旧市内の川のなかでも最も大きく種々の歴史とロマンを秘め、奈良の町を育ててくれた貴重な川である。 この川の源は春日・芳山を主としている。春日山は国の天然記念物に指定され狩猟伐採が禁じられている。 佐保川の桜は 幕末の奈良奉行であった 川路聖謨(としあきら)が江戸から大和の... 続きをみる

  • 奈良町 能登川

    外部資料 能登川は春日山と高円山との渓谷をながれている川で、樹木の伐採が禁じられた春日山を水源とする関係でいつも清らかな水が流れている。万葉集にも  能登川の 水底さへに 光るまでに  三笠山の山は咲きにけるかも とある。能登川の清流にうつった三笠山をうたった歌であろう。上流はこの川に沿って東山間... 続きをみる

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  • 奈良三山

    三笠山 高円山 春日山の奈良三山から太陽と月が一年を通じて昇るので、奈良町の人々は朝起きると東方に向かって合掌していた。水神の山としてだけでなく、太陽に対する信仰もあったと思われる。春日曼荼羅には太陽や月がえがかれているのも太陽や月に対する自然信仰をあらわしたのではないだろうか。 この三山は奈良町... 続きをみる

  • 奈良の自然 奈良三山

    若草山 現在芝原となり、三つの笠が重なっているので一般に三笠山とも称されるが、古くは葛尾山と呼ばれ樹木が茂りあい、天平勝宝八年(756)に描かれた東大寺山界四至図に東大寺の西大門の南から若草山に登る道が描かれており、とくに若草山とも葛尾山とも記されていないので、この辺りにも樹木が茂っていたと考えら... 続きをみる

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  • 奈良町 自然の山

    春日山 奈良町の東に鬱蒼と巨木が繁っている山で、高さは497㍍で余り高くない山である。一見して一つの山のように見えるが、神野峯・高山峯・上水谷峯からなっており、大昔から水谷神社・神野神社・鳴雷社や高山社といった水の神をまつる神社がある。この山を水源として能登川・率川・吉城川・佐保川があり、奈良の町... 続きをみる

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  • 奈良町と自然

    奈良三山 高円山 春日山(御蓋山含む)若草山を古くから奈良三山と呼び、奈良の町はこの三山のふもとにうまれた町である。 高円山 奈良時代、大宮人たちの楽しい憩いの楽園であったことは万葉集に ねもころに 物を念へば 言はむすべ せむすべもなし 妹と吾が 手携りて 朝には 庭に出でたち夕べには 床うち沸... 続きをみる

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  • 奈良町と 明治維新

    奈良町の人々は喜びあったが、徳川幕府がたおれ 明治政権の誕生となり、五箇条のご晢文が作成され、鎖国を解き旧来の陋習をやぶり、欧米の文化を採り入れ、富国強兵・文明開化を目標に日進月歩くと外国に追いつけ、追い越せと、突進また突進し、社会も政治も大きく変化した。衣服は和服から洋服、髪も断髪、ダンスの流行... 続きをみる

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  • 松永久秀 と 豊臣秀吉 と奈良町

    戦国時代、松永久秀がふたたび東大寺大仏殿に陣取った三好氏と戦い、大仏殿を焼いた。それ以来大仏さまは百四十年間露坐となっていたのである。なお、そのうえ奈良に大きな打撃を与えたのは、天下を統一した豊臣秀吉であった。 大阪城を築いた秀吉は、この城を関東の豪族から守るため、郡山城に弟秀長を百万石の大名とし... 続きをみる

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  • 奈良町 小史 色々 王朝文化

    王朝文化の移入 新しい王朝の文化が、主として春日神社 と興福寺を中心にうまれたということである。春日神社は藤原氏の氏神、であったし、春日神社の神官や興福寺の門跡は藤原氏関係の人がなったために、王朝の文化を育てた。その一つは春日社殿であり、宝物館におさめている宝物であろう。 平重衛の南部焼打ち   ... 続きをみる

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  • 奈良町 小史 色々

    旧奈良の町は、平城京の外京と呼ばれた地域に生まれた町である。 外京というのは、平城京の左京の東に造成された地域で、一条から五条にいたる地域が東に延長され、五坊・六坊・七坊となったのである。 藤原不比等が氏寺としてた興福寺の南大門跡に立つと、西方にかつての平城宮跡がみえ、脚下に元興寺(もと飛鳥での蘇... 続きをみる

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  • 中街道 奈良の街道色々

    現在中街道と呼んでいるのは奈良市京終口から神殿町・北之庄町を経て横田町に至り、二階堂で大和郡山市からの道路と合し、昔の下津道は田原本町・八木町から橿原市に至る道路をいっているが、国道2424号線(旧)(中街道)が拡張以前は北之庄から井戸堂を経て、備前・海知・江包などを経て香久山の東から橘寺に通じて... 続きをみる

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  • 上街道 奈良の街道色々

    奈良時代に大和平野を南北につうじる道路として上津道、・中津道・下津道がああった。現在上街道と呼んでいる街道は奈良時代に上津道と呼ばれていた道であろう。時代のすすむにつれて農耕を主とする生活の展開によって集落は平坦に移り、各所に誕生した集落を結ぶ道路が開けて上津道・中津道・下津道となり、上津道を上街... 続きをみる

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  • 山辺の道 奈良の街道色々

    もう一歩 奈良のこと知って旅しませんか? レアな情報を知って より一層楽しいくしましょう。 「日本書記」武烈天皇(第25代天皇在位499~506)の条に  布留をすぎ 薦枕(こもまくら)高橋をすぎ、物多(ものさわ)の大宅をすぎ  春日(はるひ)の春日(かすが)をすぎ 妻籠(つまこも)る小佐保をすぎ... 続きをみる

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  • 奈良の 町色々 南部地方

    大和高原の麓に展開する大和盆地の東北部にあたるところで、大和高原に接する丘陵地帯は奈良市のなかでも早く開けたところといわれ、和珥氏の一族である大宅氏や小野氏の一族が住居下と伝えられ、丘陵地には六世紀から七世紀にかけての古墳郡がある。 大和平野に農耕が発展するにつれて集落がつぎつぎにできて、これから... 続きをみる

  • 奈良の 柳生街道

    高円山と春日山との谷間を能登川に沿った山道で、古くはから東山中と奈良(国中)を結ぶ重要な道路であった。南都諸寺の僧侶の修業道路でもあった。この道に沿って弥勒菩薩や地蔵菩薩を刻んだ石仏が各所に点在している。この道は大柳生を経て江戸時代に、「切る武道」から「人を活かす武道」へと育てた柳生新蔭流」を生ん... 続きをみる

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  • 奈良の 笠置街道

    奈良                     (昨日と同じ地図参考にご覧下さい) 市川上町から山の間をぬい中の川町・須川町を経て前川町・白砂川にそった狭川町・廣岡町をすぎて笠置に通じている路で、鎌倉時代簀川路ともいわれていた。「東里村史」によると、簀川・鳴川がはじめて文書にみえるのは天平勝宝八年(... 続きをみる

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  • 奈良の 東部の名前色々

    奈良の東部 奈良市の東部を 東山(ひがいやま)と呼んでいる。地理的には大和高原」といわれいるところで、標高300㍍から500㍍といった山地で南から北へと傾斜し、起伏のあまりない波状的な山地で、布目川・今川・白砂川・などはそれぞれ平地(田原 大柳生 柳生 阪原 pr巴地(おうじ)須川 狭川 など)を... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 西大寺

    このあたりは平城京の一条三坊にあたるところで、称徳天皇が東大寺にならって創建された西大寺のあるところである。 西大寺は称徳天皇が藤原仲麿の反乱があったので、再びこうした不祥事がおこらないようにとの念願から国家鎮護の仏像とされている四天王像の造立を発願されたとのがこの寺の濫觴となったように西大寺の資... 続きをみる

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  • うのん から 卯月のお知らせ

    天理市に出来た施設です。 奈良の歴史の体験型施設です 奈良の知識を持って奈良を楽しんで下さい 今日の薬師寺と桜 「本のある喫茶店 うのん」今月のお知らせ お休み予定 4月 4日(月)5日(火)   11日(月)12日(火)13日(水)   17日(日)18日(月)19(火)   25日(月)26日... 続きをみる

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  • 奈良の 町色々 北西部

    佐紀・西の京丘陵・矢脈山脈・といった北西部のところを奈良では西山と呼んでいた。この北西部方面に早くから人々が住みついたようである。昭和52年3月、佐紀池の発掘調査がおこなわれたとき、縄文時代の土器の破片が発見された。これだけでは縄文時代に人々がすみついたと考えられるのは早計であるが、平城京の西・南... 続きをみる

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  • 奈良の大路 一条大路(佐保路)

    平城京の」一条大路で、東大寺の転害門から西にのび、平城京に通じる大路である。奈良時代創建の総国分寺東大寺と総国分尼寺法華寺を結び、沿道には、大宮人たちの住居のあったところで、当時大宮人が桜かざし、万葉集をひもとけば明らかである。平安遷都後も、京都、大坂北部からの交通の要路であったこちょは、枕草子、... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 平城京極大路 = 京街道

    この街道は明治18年国道49号線となり、さらに大正9年4月に国道15号線となった京都と奈良を結ぶ重要な道路である。 平城に都を遷され、平城京が計画された際、京東へ三坊fがひろげられ、この道路がその京街道となり、東大寺と興福寺がこの道路を境界として計画された。それ以来、この道路は東大寺、興福寺の建立... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 登大路町

    現在 近鉄奈良駅から東大寺に向かう辺りを 「登大路」と呼ばれていますが 「平城坊目考」に「興福寺流記云東里二十七北限従東大寺小路 春日里直葛中尾を登る 是登大路之濫觴也」とあり、「奈良坊目拙解」には、「南都では東を上とし、西を下と呼ぶ習わしとなっている。春日明神が東山に所在している所以なり」と述べ... 続きをみる

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  • 薬師寺 修二会花会式

    鬼のごちそう 修二会とは奈良の大きなお寺が五穀豊穣をなどをお祈りして行なわれる行事である。薬師寺では3月25日から31日にかけ行なわれる。最終日の31日には「鬼追い式」がありそれで結願となる。 その鬼にごちそうがふるまわれる 薬師寺は飛鳥浄御原宮に建立されたが。都が奈良平城京に移った時、現在の地に... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 三笠山麓町

    若草山の麓に発展をみた町で、奈良が宗教都市から観光都市へと移った江戸時代から社寺巡礼の客、ならびに若草山を登る人々を相手とす名産店と旅館が軒をならべている。若草山は全山芝生におおわれ高さも三百四十二メートルといったなだらかな山で、婦人子供でも楽に登ることができ、山上からの展望がすばらしいので、古く... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 福智院町

    この町に福智院があることから町名となったと伝えている。そのほか今西書院と称し国の重要文化財に指定されている貴重な建物がある。江戸時代福智院氏の住宅であったが大正13年今西清兵衛文氏がこれを買い求めら。室町時代中期を降らない遺構といわれている。片側入母屋造り、北側に軒唐破風がつき桧皮葺きで、中世の住... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 油阪町

    旧名を府阪と呼んでいた。享楽年間の「七郷記」にも「府阪南方」を記している。府阪は上古近衛府の領地で、府阪と称するといわれていたが、古老の話によると、春日神社の灯明油がこの府阪の油工業者から献じられたので、俗にいつのころからか油阪と呼ぶようになったと「奈良坊目拙解」にある。 また、この辺りは東および... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 柳町(三条通り やすらぎの道交差点南側)

    慶長年間、この辺には人家がなく柳が数本、率川のほとりに生えていたので町名になったと「奈良坊目拙解」にある。天正年間(1573~1592)刑罰所となっていたと同書に記している。昭和45年まで率川のほとりに柳の木が一本あったが、この川が暗渠となった時、姿を消し、今わずかに民家の前に一本名残りをとどめて... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 三条大路

    平城京の三条大路で、現在大路でとしての面影のあるのはこの大路と一条・二条大路、六坊・七坊大路である。この大路の終りに春日大社がある。現在残っている大路のなかでも重要視されてきた道で、都が京都に遷った後も、奈良と大阪を結ぶ大切な交通および産業道路として現在に及んでいる。特に江戸時代にはこの通りを界と... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 京終町(きょうばて)

    平城京の終りの地点から「京終」というとの伝承がある。しかし、村井古道は平城京の「京終」ではなく、後代奈良民戸衰弊し、漸く人家この辺でおわったので、「京終」というようになったと「奈良坊目拙解」に記している。 平城京は東西4.2キロ南北4.7キロで東の京極はJR奈良駅の近くで終わっているので、ここを「... 続きをみる

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  • 奈良の町色々 北天満町 中天満町

    北天満町の北方丘陵となっている。古くは飛鳥山または天満山とも呼ばれ、またの名を西方院ともよばれてきたが現在は一般に瑜伽山と呼んでいる。 この丘陵に天満神社、瑜伽神社、西方院跡などがあるので、そうした名が生まれたのであろう。室町時代にこの丘塁は設けられ、戦国時代に戦いを交えたことは、「大乗院寺社雑事... 続きをみる

  • 奈良の地名 平城京六坊大路

    平城京六坊大路 平城京は京東へ一条大路から五条大路へのあいだ、五坊、六坊と、現在、京街道とよばれているところまで拡張された。東向・橋本・餅飯殿・京を結ぶ線が、六坊大路と呼ばれたところである。この大路を界として東に興福寺・元興寺が建立されたのである。このところは古くは門前町として発展したところで餅飯... 続きをみる

  • 奈良の地名 北風呂 南風呂

    奈良 北風呂町 南風呂町 元興寺のよくしがこの辺りにあったとかいわれるが、元興寺の境内がこの辺りまで及んでいなかった 風呂は昔、病気を治すために、寺院などに設けられた社会福祉であったことなどを考えあわせ、貧民救済につとめた忍性のあるこの十念寺 南城戸にある悲田院などのことを考えるとこの町は病人救済... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 餅飯殿 商店街とのイメージがありますが 「大宿所」と呼ばれているところがある。 もと興福寺の一院遍照院のあったところで、春日祭礼の渡馬をつないだところと伝えている。現在、春日若宮おん祭りの際、大和武士参勤講が十二月十五ここに集まり大宿所祭りを催すほか、渡行に使用の武具・衣装等を陳列し、また春... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 餅飯殿町 ③ 餅飯殿町という町名由来についても種々の伝承がある。弘法大師勧請の窪の弁財天に餅・などを献じたところからといい、また聖宝(理源大師)が大峰山に入峯の際、この町の随行がその土地の人々に餅飯を供養したので、その土地の人々が餅飯殿と称した。 餅飯殿 といえば 今は商店街といったイメージ... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 餅飯殿町 ② この町に役小角をまつっている。町内の人々は毎年八月に大峰登山をしている。「古記」によると醍醐天皇の延喜年間(910~923)醍醐寺の聖堂(理源大師)が大峰に入った時、餅飯殿町の人々が随行しtれいた。その際、天川村の人たちが先達となって案内したという伝承がある。

  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 餅飯殿町 ① 古くは蕗畠郷と呼ばれていた。文字の上から解釈すると蕗が多く自生していたところ思われる。「南都古事」によると、「藤原冬嗣が北家の隆昌を祈って南円堂を創建した際、弘法太師が吉野の天川村の弁財天を興福寺に勧請し、窪の弁財天と称した。その際、この町にも弁財天を勧請」とある。 現在、弘法... 続きをみる

  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 十輪院町 元興寺の一院といわれ現在十輪院と呼んでいる寺院があるところからこの町名がうまれた。 十輪院の本堂は藤原時代の貴族の住宅を偲ばせるような優雅なもので、地蔵菩薩を本尊とするこのお寺にふさわしい堂と思われる。石仏が多く珍しいお寺を感じる。

  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 閼伽井町(あかいちょう) (新薬師寺から西側 ) 元禄12年の町家改帳に家数22軒とある。現在ここに閼伽井庵がある。庵についての記録は安政の大地震であくなり、創建については詳かではない。しかし、新薬師寺の閼伽井坊と関係があるのではないかと考えられいる。この庵に「易の神」と称する鎮守霊符神(銅... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 東向通り 平城京の外城京の外京六坊大路の名残で、東側に興福寺の伽藍がたちならび、西側はその別院や菜園のあったところといわれている。鎌倉時代大和一円を支配していた興福寺の勢力はたいしたもので、かりそめも伽藍の近辺に商家を作らせず、商店の二階造りさえも堅く禁制されていた。従って興福寺に面した東向... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 多聞町 松永久秀が永禄3年(1560)佐保山に城を築いた。我が国の城廊史で重要な城といわれ、美しい城であったようである。当時ポルトガルの宣教師ルイス・ダルメイダが本国に送った報告書に、この城について「世界中にこの城のごとく善美をつくしたるものはないと考える」と書いている。 この城は後来の山城... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 油阪町 旧名を府阪と呼んでいた。享禄年間の「七郷記」にも「府阪南方」を記している。府阪は上古近衛府の領地で、府阪と称するといわれていたが、古老の話によると、春日神社と灯明油がこの府阪の油工業者から献じられたので、俗にいつのころからか油阪と呼ぶようになったと「奈良坊目拙解」にある。

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 今御門町 奈良に七御門と称する門(東御門 西御門 中御門 今御門 高御門 下御門)があった。 そのうち東御を除いた六御門は現在町名として残っている。東御門は興福寺の東門のあったところといわれ、現在 京街道登大路町の道路が接しているところにあったという。下御門は元興寺にあった門を称していたよう... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から今月のお薦めの本

    今月の ならら です。 古代歴史の最も重要な内乱です。 今月の 本のある喫茶店 うのん お休み予定 3月 1日(火)   7日(月)8日(火)   14日(月)15日(火)   20日(日)21日(月)22日(火)   28日(月)29日(火)

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良  破石町 高畑から少し北側の場所 読み方が 「われいし」 この町が「破石」と呼ばれているのは約2メートル立方の石がある。町人の話によると、西大寺の東塔の心礎石をつる時、酒三十余斛をこの石にかけて破ったので破石といい町名もここから生まれたといわれている。一説によるとこの石は藤原氏 吉備氏 安部... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 高畑 高畑は春日神社 興福寺の社寺領東山間の入口でもあったことが発展の一因である。この道を柳生街道と呼んでいる。 平安時代に入って山岳仏教が盛んになり、忍辱山町に圓成寺 鹿野園 誓多林 忍辱山 大慈仙といった釈迦にゆかいの地名なども生まれ、東山中は興福寺 東大寺 元興寺 といった南都の諸大寺... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 高畑附近 この地は大和高原が西に緩やかに伸びた見晴らしのよい台地となっていたところから高畑(高畠)といった地名がうまれたと考えられる。 古くは春日野と呼ばれていた。大昔には和爾氏の一族であった春日氏がここに住み栄えていた。 平城遷都後に藤原氏が春日神社を創建し、新薬師寺がここに創建された時か... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 奈良の地名については、種々の説がある。「日本書記」に「崇神天皇の御代に武埴彦王がその妻、吾田媛と不軌をはかり、山背(城)から大和にはいろうとしたので、天皇は大彦命と彦国葺命をして、これを討たしめた。その時、官軍の精兵が「那羅山」に屯集し、草木を踏み慣したので、この山を「那羅山」と呼ぶようにな... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 都が平安(京都)に遷ったのち、平城京をはじめ平城京の大部分は草原と化したが外京ならびに左・右京に建立された諸大寺はそのまま残り、国家鎮護の寺院としてまた仏教の学問寺として貴重な存在となり、有名な高僧も続出し、国家の平和と国民の豊楽に大きく貢献した。 興福寺の如きは藤原氏の氏寺として、藤原氏の... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    奈良 平城京は東西4.2キロ南北4.7キロといったほぼ正方形に近い形で校正された。東西 南北に碁盤の目のように大路が設けられたが、京東に一条から五条までの区域を延長して外京とし、五坊 六坊 七坊 と拡張され、東西5.9キロ南北4.7キロとなった。現在の旧奈良市は主として拡張された外京の地に発展した... 続きをみる

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    奈良 奈良の町は大和高原の傾斜が緩やかに西に延びた丘陵から平坦にかけて発展した町である。 「平城ノ地西しきおんづ二叶ヒ三山鎮ヲ作シ亀筮並フ。宜シク建ツベシ」とおおせられ、和銅3年(710)ここを都に遷された。 遷都以前。すでに和爾氏 などが住んでいたことは日本紀 日本書記に記されている。また平城京... 続きをみる

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    富雄街道 富雄地区に人が住み始めたのは、登彌神社附近や藤ノ木から石器や土具が出土し、大和田町では前方後円墳といわれる丸山古墳から 鏡 玉 琴柱 などが発見されている。そのことから古墳時代には人々が住んでいたことがわかる。 奈良時代になると 降福寺 降福寺尼寺が行基によって添下郡登美村に建てられた。... 続きをみる

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    富雄村 神武天皇との戦いに負けた 長髄彦とゆかりの深い神社として 今は石木町と呼ばれる所に登彌神社がある。2月1日には かゆ占い でその年のイネの生育占うことで有名です。 西の京 勝間田池から徒歩15分から20分の距離 富雄川に沿った小高い丘に鎮座してられます。 ここは、高皇産霊神・誉田別命・神皇... 続きをみる

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    富雄村の歴史 「日本に神武に神武天皇の皇軍が長髄彦との戦いに勝つことが出来なかった時 雨が降り金色の霊鵄が飛んできて 天皇の弓のゆはずにとまったので、金鵄の光で長髄彦の軍は迷眩えて戦うことが出来なくなった。 「長髄は是邑之本號なりて因て似て人の名と為す。皇軍が鵄の瑞を得るに及んで、時人乃ち鵄邑と号... 続きをみる

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    富雄街道 西の京から西側になります。 富雄川に沿った地域で、明治22年4月1日市町村制の実施にともない、二名 三碓 中 大和田 石木 の五ヶ村を合併して自治体として富雄村ができたが、富雄村の歴史は弥生時代までさかのぼる。

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    西大寺 西大寺は大阪 奈良を結ぶ近鉄奈良線から、京都 橿原市から吉野に向かう電車の乗り換え駅です。 西平城京平城京から南に向いても右 右京にあたる所に称徳天皇(女性天皇)が東大寺にならって創建されたお寺です。 藤原仲麿の反乱があったので、再び起こらないようにの願いをこめて国家鎮護の仏像とされる 四... 続きをみる

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    伏見 京都にも 伏見 はある  奈良の伏見はの由緒については諸説ある。 フシミは「伏せ水」で、地下水が地下にもぐっている地形地名である 西の京丘陵は 上部から 砂礫の端の割れ目から地下水が泉となる。 秋篠寺 唐招提寺はこした水にめぐまれた地域を利用して立地している。 また別の説では、聖武天皇が大仏... 続きをみる

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    尼辻町 近鉄橿原線西の京駅から一つ北側の駅が尼ヶ辻駅 尼辻町の町名の由来については 唐招提寺を建てた鑑真和上に関係する。 鑑真和上が唐招提寺を建立するために、中国の伝統 甘味の土地が聖地 都の考えに基づいて 各地に求めたところ この土地が甘味があったので、ここに東証を建立することになった。尼辻は甘... 続きをみる

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    西の京 勝間田池 いくどもブログに上げています。天平人と同じ景観が望める場です。 この地域は 七条です。 そしてこの池は また七条大池 とも言われています。 この地域には土師として 瓦職人の方々が多く住んでいて 法隆寺 京都の東寺金堂の鬼瓦なども作られていました。 新田部新王による歌一首 万葉集に... 続きをみる

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    西の京 昨日のブログで 離宮跡をすこしかきました 。この地を西の京と云われる始めは 「続日本紀」によると 延暦」3年(784)9月5日 「京中大雨、懐百姓廬舎、詔遣使東西京振給之」とある。平城京の右京を西京と称されている。また天平感宝元年(749)閏5月23日に「天皇遷御薬師寺宮、為御在所」とみえ... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    西の京 薬師寺から北西 西の京駅から徒歩10分以内 平城京の宮人達の離宮 ここから 勝間田池畔でのそぞろ歩きを楽しんだことが 万葉集にあります。

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    西の京 うのん は西の京 薬師寺から徒歩5分南西にあります。 西の京は 唐招提寺 薬師寺と有名なお寺が徒歩10分以内にありますが 他にも歴史的に大切なモノがあります。 大和は日本の古代を知全て全てにも思われる所です。 少々古いほんですが 奈良の紀行が読み取れます。 今読むと 古い内容ですが 奈良の... 続きをみる

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  • 薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

    法華寺 尼寺です。 平家物語に出てく横笛 その像があります。それは、紙で作られたものです。 古代のお菓子 蘇 を作ってみました。 甘味がほんのりあってコーヒーとの相性は合いますね

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