うのんのブログ

奈良西の京薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺から唐招提寺にそして大安寺

から高僧を招くことを聖武天皇から勅使を受けた僧は大安寺の栄叡師と 興福寺の善照師でした
そのうち一人栄叡師は旅の途中に亡くなりました。
その大安寺はその昔 黄金の塔 東塔 西塔があり今の大阪 堺まできらびやかな輝きが見えたそうです。
 大安寺の創基は聖徳太子が 今の平群に道場を欽明天皇が百済大寺をそして天武天皇が高市群の飛鳥に再興され 高市大寺となり大官大寺と号しました。そして平城京遷都に従い今の地に移りました。
東大寺が出来るまで、官寺の筆頭の寺でした。 


薬師寺から唐招提寺

鑑真和上は数度の渡航の困難を経て日本今の鹿児島県秋月に着きました。そしてまず東大寺 大仏殿西側に 戒壇院が建てられました。鑑真和上は戒壇院に付属した唐禅院に住まれました。そから戒律思想を全国に広めるのに尽くされました。
和上は私寺を建てることを望まれ 唐招提寺を建てられました。
この「唐招提寺」の名前は最初「唐律招提」僧侶が戒律を学ぶ私立の学問所として創立されました。後に孝謙天皇が官寺と認め 「唐招提寺」となりました。
鑑真和上は日本で10年のうち 5年を東大寺で後の5年を唐招提寺で過ごされました。


興福寺です



薬師寺から唐招提寺

唐招提寺は鑑真和上により建立された古都唐から数度の渡航により日本に来られました。
その渡航は航海事情は非常に悪く 高波 嵐や 東シナ海を海賊が横行する中での来日は命がけでした。
和上の日本へ行くことを阻止しようとする人達により 政府に密告され 船は没取 捕らわれたりしました。
鑑真和上の渡航は5回企てられましたが 漂流などで成功しませんでした。この間に 聖武天皇から 唐の高僧を招くことの勅使を受けた 大安寺の栄叡と和上の身の回りを直接世話をする弟子の祥彦は病死 鑑真和上は視力を失いました。

それでも 和上の日本に行くこと 仏の教えを説くことへの意志は強く 遣唐使と共に三隻の船に分かれ日本に向かいました そして今の鹿児島県秋月に着きました それは日本をたって20年の歳月が掛かりました。