「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

#魚梁船「やなふね)

奈良県の発展には交通網を整備する必要がある。
とりわけ鉄道の敷設は悲願とでもいえるものであった。
奈良盆地の水を集めて流れる大和川は、江戸時代から水運が発達し、下流の河内側は剣先船(けんさきぶね)が、か亀の瀬から上流の大和側には魚梁船が通っていた。

外部資料


魚梁船は小型で底が浅く、九枚のむしろで帆を立てていた。初瀬川筋は山辺郡嘉幡村(きはたむら)、寺川筋は式下郡今里村、曽我川筋は十一郡松本村、佐保川筋は添下郡筒井村までのぼった。そのためあちこちに船着き場や問屋が出来た。
もともと、これは江戸時代のはじめ、片桐且元(かたぎりかつもと)が自領の年貢米を大阪へ運ぶため亀の瀬の難所を開き、平群郡立野村の安村家に物資の輸送にあたらせたことにはじまるといわれている。
盆地内の川は夏は農業用水にまわされ、冬は渇水のため利用できなかったが、春には肥料や塩などが上流は、秋には米や木綿などが下り荷として運ばれた。


※魚梁船の盛衰
魚梁船は細長い形をしており、その一回り大きなものを剣先船ともよんでいた。江戸時代には堤防越しに見える帆が大和の春秋の風物詩になっていた。明治15年(1882)になって内陸交通会社が大和川の荷物運搬業務をはじめると、大和と大阪を結ぶ大動脈となっていった。しかし明治25年大阪鉄道が開通すると急速に衰えた。



■住所630‐8053奈良県奈良市七条1丁目11‐14
■℡0742‐43‐8152
■✉honcafeunon.nara.nisinokyo@gmail.com

×

非ログインユーザーとして返信する