「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

奈良の 町色々 南部地方


大和高原の麓に展開する大和盆地の東北部にあたるところで、大和高原に接する丘陵地帯は奈良市のなかでも早く開けたところといわれ、和珥氏の一族である大宅氏や小野氏の一族が住居下と伝えられ、丘陵地には六世紀から七世紀にかけての古墳郡がある。
大和平野に農耕が発展するにつれて集落がつぎつぎにできて、これからの集落を結ぶ南北の道路(山辺の道 上津道 中津道 下津道)ができた。崇神天皇の御代に各地に派遣されwた四道将軍、愛人鮪のあとをしたった影媛やさらに平安時代に紫式部・清少納言といった女性が、大和の長谷寺に詣でたのも、山辺の道・上津道であったのではなかろうか。
しかし、この方面が大きく発展をみたのは平城京の成立である。現在の旧大安寺地区および旧辰市地区は平城京の左京の三条から八条・三坊・四坊の地域で、そこには大安寺が建立され、公立の東市が設けられたのである。したがって奈良時代にはこのあたりは相当に賑わったのではなかろうか。
平安への遷都後は万葉集
 たちかわり 旧き京師となりにけり
 道の芝草長く生ひけり(1047)
の歌のとおり多く田園と化したが、農耕を主とした集落が生まれ、東大寺・興福寺・元興寺・大安寺を中心とする門前町への農作物の主産地となり、興福寺、および春日神社・東大寺の寺領としての生活をつづけ、戦国時代には、古市氏・井戸氏・東九条氏・窪之庄氏・今市氏などの大小豪族が覇を競い、豊臣秀吉の天下統一後は、大和郡山藩配下となり、江戸時代には柳生藩および藤堂藩の配下となり、明治維新の廃藩置県で奈良県となり、一時、堺県、大阪府となったが明治二十年の奈良県の設置で奈良県添上郡となり、町村制実施で、東市村・五ケ谷村・帯解村・明治村・辰市村・大安寺村の誕生をみたが、昭和三十年奈良市への合弁でこうした村名は姿を消し、大字名が町名となった。

×

非ログインユーザーとして返信する