「うのん」の気象歳時記ブログ

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奈良の町色々 油阪町

旧名を府阪と呼んでいた。享楽年間の「七郷記」にも「府阪南方」を記している。府阪は上古近衛府の領地で、府阪と称するといわれていたが、古老の話によると、春日神社の灯明油がこの府阪の油工業者から献じられたので、俗にいつのころからか油阪と呼ぶようになったと「奈良坊目拙解」にある。
また、この辺りは東および北が高く、ゆるやかな坂をなしているので、往古はこの坂を寧楽坂と称した。「平家物語」や「源平盛衰記」「などに、治承4年12月28日大将平重衡が南都焼打ちの際、興福寺の衆徒たちが評議して、奈良坂、般若坂両所に逆もぎ茂木を引き掘りを構えたこと、平重衡が三万の兵を二手に作り奈良坂、般若坂の二道より押寄せたことども同書に記している。なお、重衡は法華村の鳥居前を本陣とし、二条大路より攻めたことなどをあげ、奈良坂はこの油阪を称するといい、福井庄下司次郎大夫俊方が火を坂の在家にかけた。坂の在家はこの奈良坂であると同書および「奈良坊目考」にも記している。
油阪町の道は昔の池の堤であった。(現在の大宮通り)
元禄時代の地図といわれている古図に「油阪之池」と記しているし、そこから北は墓地となっていたと、同町は江戸時代から明治にかけて農業が主で、それ以前、東山守としていにた人々が住んでいたよういで、現在東山に油阪領といわれる山が9町余りもある。
油阪の地域は相当広い。油阪東町、油阪町1丁目 油阪地方東町 同西町と分れ、一部は今辻子 西之阪町となった。通称町名が複雑多岐にわたるので、昭和44年4月1日、奈良市の町名を整備することとなり、油阪1丁目から4丁目に至る地域(JR奈良駅地域から船橋通りに通ずる道路の西側)を大宮町と改め、1丁目から6丁目となった。
開化天皇陵 正しくは春日率川坂上陵で前方後円墳周囲五百二十余り㍍ 濠をめぐらしている。御陵名が春日率川坂上陵と呼ばれているところから察すると、この辺りも春日とよばれていたことが推察される。

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