「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

奈良の町色々 平城京極大路 = 京街道

この街道は明治18年国道49号線となり、さらに大正9年4月に国道15号線となった京都と奈良を結ぶ重要な道路である。
平城に都を遷され、平城京が計画された際、京東へ三坊fがひろげられ、この道路がその京街道となり、東大寺と興福寺がこの道路を境界として計画された。それ以来、この道路は東大寺、興福寺の建立に必要な用材が運ばれた道、また、興福寺の僧兵が春日神社の神木をかついで京都に強訴した道、平重衡が三万の兵を率いて南都を焼討ちに兵を進めた道でもある。また、東山間への道(月瀬街道)の入口になっている道でもある。したがって東山間および京都相楽羣の人々が生活必需品をこの道を通じて奈良に求めたので、この街道は旅館と商店の街として大きく発展をみた。明治5年の今在家町戸籍簿によると商業32戸 工業23戸 農業1戸 その他3戸となっている。昭和13年国道15号線の改修で登大路・奈良阪間の道路の拡張とその一部、バイパス線が計画された。戦後、交通機関の発展にともない交通量も年々その数7を増すこととなったので、京都木津町から法華寺町を経て大和郡山市の横田に通じるバイパス線が計画、昭和47年、木津町から三条大路まで完成をみたので国道24号線がこれに変わり、従来の国道は県・市道となり、交通量もやや緩和することになった。
古くは東大寺の西門(転害門・焼け門・西門)がこの街道に沿って設けられ、転害門は現在も創建当時の面影を残している。そればかりではなく、この通りはに建ち並ぶ民家も古都奈良を偲ばせるものがある。国道の改修によって民家の一部改造されたところもあるが、明治時代に建立された二階建ての堂々たる人家の建ち並景観はこの町に住む人々の意気を示すものであり 江戸時代から明治・大正・昭和にかけてこの地の発展を今に物語っている。


転害門は奈良県庁舎を北側 「きたまち」と呼ばれている。古くからの伝統ある店も現在ある。

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