奈良の 笠置街道
奈良
(昨日と同じ地図参考にご覧下さい)
市川上町から山の間をぬい中の川町・須川町を経て前川町・白砂川にそった狭川町・廣岡町をすぎて笠置に通じている路で、鎌倉時代簀川路ともいわれていた。「東里村史」によると、簀川・鳴川がはじめて文書にみえるのは天平勝宝八年(756)で、東大寺の文書のなかに「勅定山界四至 北一堺簀川上高峯・三堺鳴川北横峯井梅谷云々」とある。北町字宮山および須川町字小森には十七基の円墳がある。「奈良市史考古編)ことが調査の結果、詳かになったので、六・七世紀のころに、すでに人々がすみついていたことが明らかである。東鳴川町には行基菩薩の創建という善根寺の跡も残っているところからすると、古墳時代から相当人々が住居していたことがわかる。
戦国時代、須川に簀川氏が山城を築いたこと その周囲に寺院が建立されていたということである。このころ狹川にも狹川氏や福岡氏の山城があった。
今日の薬師寺