「うのん」の気象歳時記ブログ

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奈良の町色々 京終町(きょうばて)

平城京の終りの地点から「京終」というとの伝承がある。しかし、村井古道は平城京の「京終」ではなく、後代奈良民戸衰弊し、漸く人家この辺でおわったので、「京終」というようになったと「奈良坊目拙解」に記している。
平城京は東西4.2キロ南北4.7キロで東の京極はJR奈良駅の近くで終わっているので、ここを「京終」とは言い難いが、平城京は京東に一条から五条にわたる地域が延長され、現在の「京終町」のあたりはちょうど現在の東向から餅飯殿町を通っていた外京六坊大路と五条大路の延長線と交差するところにあたるので、古くから伝えられているように平城京の終点ともいい得るから、「京終町」名もここから生まれたとする考えが妥当ではないかと考えられる。
「京終町」は相当広範囲の地域で、古くは「京終郷」とも「京終村」とも称せられ、住民の多くは農業を主体とする農村地帯であった。明治32年奈良鉄道(現在のJR桜井線 《まほろば線》)の開通によって住宅地 商店街として発展し、東山間と「京終町」とを結ぶ索道によりさらに進展した。
なお、旧中街道と呼ばれた古道(角振 東城戸 南城戸 京終各町)が神殿・北之庄町を経て大和盆地の東部を南北に通じ、農村から農作物が奈良市内に搬入される重要道路となり、県道の指定によって一層整備された。「京終町」はこの道路の奈良市への入口の位置を占めていたので、大正7年2月南京終町青果市場が開設され、魚市場も併設されるにつれ商店街へと発展をとげた。
大正7年に「京終」と山辺の小倉を結ぶ奈良安全索道会社が設立され、大正8年から東山中に生産される高野豆腐・野菜・木炭・木材などの物資がこれによって運搬され「京終町」を賑わす一因となったが、その後、東山中と奈良を結ぶ東山線の道路の拡張および車の発展に伴い輸送はこれにかわりこの索道も昭和26年その姿を消すこととなった。「京終駅」の近くのは製材所があって 今もその名残が感じられる。
奈良市ではこの地域を工業地帯に指定したので、化学工業 交通機関 自動車関係といった大小の工場の誕生を見るに至った。この地域は国道24号線に近い(旧24号線)も発展に拍車をかけることになったのである。その他公営の桂木住宅団地もでき、「京終町」は農業から商工業さらに住宅地へと大きく発展をとげた。従って通称名もつぎつぎ生まれることになった。
もと「京終町」と「南京終町」・「京終地方東側町」(じがたひがしがわ)・「京終西側町」であったが、昭和16年12月に「京終町の一部を晃平町と称することになったほかは、「北京終町」は「北京終町」と「北京終本町」にわかれ、「南京終町」も「南京終町」・「南京終南町」「南京終西町」となり、南京終町1丁目・・その他桂木町の誕生を見ることになった。
桂木町名は奈良時代この辺りに葛城寺があったところから生まれた町名である。

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