「うのん」の気象歳時記ブログ

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奈良の 町色々 北西部

佐紀・西の京丘陵・矢脈山脈・といった北西部のところを奈良では西山と呼んでいた。この北西部方面に早くから人々が住みついたようである。昭和52年3月、佐紀池の発掘調査がおこなわれたとき、縄文時代の土器の破片が発見された。これだけでは縄文時代に人々がすみついたと考えられるのは早計であるが、平城京の西・南のところに弥生時代の住居跡が発見されているので、弥生時代にはすでに人々が住みついていたことは確実である。
さらに、この方面に垂仁・成務・案康・各天皇陵をはじめ、神功皇后・磐之媛命・日葉酸媛命の陵や、五世紀から六世紀にかけて発展をみた前方後円式の古墳うわなべ・こなべ古墳などが点在していることを考えても、そのころ多くの人々が住居していたことが立証される。専門家の研究によると、この地方には土師師の一族、および和珥春日氏・小野氏などが居を占めていたと発表されているし、元明天皇が藤原京から都を平城に遷される際、菅原の民家九十余戸を和銅元年(708)11月に他に遷されたことが「日本書記」に「七日 乙丑 遷二菅原ノ池ノ民
九十餘家ヲ給フ布穀ヲ」と記している。
しかし、西山方面がさらに大きく飛躍したのは、和銅3年(710)藤原京から都を平城に遷されたからである。
平城京は北に佐保・佐紀の丘陵・東に大和高原・西に矢田丘陵・西の京丘陵・生駒山脈と三方が山に囲まれ、南に大和平野が開けるといった「天子南面の相」に叶ッタ景観の地に営まれたのである。
元明天皇が都をここに遷す際し、和銅元年二月十五日に出された遷都の詔に
「方今平城ノ地 四會圓に叶ヒ山鎮ヲ作シ亀筮並二従フ。宜シク都邑ヲ建ツベシ。宜シク其レ榮構スベシ」とおおせられた。
平城京は中国の長安「現在西安)京にならい、古くから大和盆地を南北に通じていた上・中・下の三道のうち下つ道の北部が都の中央の朱雀大路になるように計画され、東西4.2キロ・南北4.7キロといった長方形の形とし、東西に一条から九条まで、南北に朱雀大路に平行して左・右に一坊から四坊と碁盤の目のように大路をつくり、朱雀大路の西を右京・東を左京とし、左京に接してさらに東へ一条大路から五条大路の間七坊大路までを外京とした。朱雀大路は幅84㍍、普通の大路は約幅24㍍という広さで、大路と大路との間に約12㍍の小路を東西南北に各々3づつ設け、朱雀大路の南端には羅城門を設けた。(国道24号線西九条南交差点から西佐保川手前に碑がある。)

平城遷都とともに飛鳥地方にあった 法興寺(飛鳥寺)薬師寺 大官大寺 などを平城に移し、元興寺 薬師寺 大安寺 興福寺 と改称し、さらに東大寺 海龍王寺 唐招提寺
菅原寺 といった寺院や春日神社 手向八幡宮 も平城京の東部に創建され 平城京は7代70余年の帝都として 咲く華の匂うが如し と歌われたように隆盛をきわめ、我が国の歴史のい上にも、また 文化史上にも輝かしい文化の華を咲かせたのである。しかし、都が平安に遷っ田後は、万葉集に 田邊福麿が
 立ちかわり古きみやことなりにけり 芝草長く生ひにけり
と詠ったように、平城京は荒廃の一途を辿ったが、平城京に建立された社寺はそのまま残り、これらの諸大寺を中心として門前町が発展し宗教都市として、また観光都市として今もある。

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