「うのん」の気象歳時記ブログ

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奈良の 東部の名前色々

奈良の東部


奈良市の東部を 東山(ひがいやま)と呼んでいる。地理的には大和高原」といわれいるところで、標高300㍍から500㍍といった山地で南から北へと傾斜し、起伏のあまりない波状的な山地で、布目川・今川・白砂川・などはそれぞれ平地(田原 大柳生 柳生 阪原 pr巴地(おうじ)須川 狭川 など)を」つくり、南部から北部へと流れ木津川に注いでいる。
この地方にいつごろからか人々が住み着いたのであろうか。柳生 田原 大柳生 狹川の平地に接した丘陵に六世紀から七世紀にかけての古墳が点在しているので、弥生時代に人々が住み着いていたと思われるが、住居の跡は発見されていない。しかし、各所に横穴式の古墳の存在するところからすると、この時代すでに集団的に居住していたことが立証される。古墳の存在から考えると、川にそった平地に住居をかまえ、農業 林業が主な産業であったことが伺えるが、こうした人々は一体どこからきたのであろう。国中(大和平野)から能登川 岩井川 にそって田原 狹川 大柳生 の盆地に住みついたのか、それとも淀川から木津川(泉川)をさかのぼり布目川 今川 白砂川にそった平地に移り住むようになったとも考えられる
国中には和珥族ゆかりの大宅族 春日族が五・六世紀に住居していたといわれているので、これらの一族が山地に移ったと考えられる。さらにふるくから木津川に沿った京都府の土師 棚倉 飯倉 市坂などに古墳が多く点在し、「日本書記」には欽明天皇の26年(565)高麗人を山背に置かれたことを記し、現在地名として高麗(こま) 上狛 下狛があり 狛族の建立した
高麗寺の跡残しているので、こうした人々は泉川をさかのぼって住み着いたと考えられる。
大化の改新の際、全国を国、郡 郷 に統一区割りされた。「和妙抄」によると大和国に十五郡八十九郷が記されており、添上郡は山村 楢中 山辺 楊生 八島 大岡 春日 大宅の八郷が記されている。大化の改新により、土地制度として班田収授をおいて線引(東西の線を条・南北の線 を里と呼んだ)が行なわれた。これを条理制と呼んでいる。さらにこの区域を三十六等分したものを「坪」と呼んでいる。各地の地名に二坪とか五坪 九坪 といった地名が残っているのは、その名残りである。
しかし、東山方面に人々が多く住むような萠しを見たのは、やはり都が平城に遷されてからと考えられる。


薬師寺をお守りしている休が岡八幡神社 の桜です。


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