「うのん」の気象歳時記ブログ

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奈良の町色々 登大路町

現在 近鉄奈良駅から東大寺に向かう辺りを 「登大路」と呼ばれていますが


「平城坊目考」に「興福寺流記云東里二十七北限従東大寺小路 春日里直葛中尾を登る 是登大路之濫觴也」とあり、「奈良坊目拙解」には、「南都では東を上とし、西を下と呼ぶ習わしとなっている。春日明神が東山に所在している所以なり」と述べ、さらに当町から春日率川宮(昔の野田村)を通り、春日の里および東大寺南大門前に至るのが往還路である。これによって「登大路」と名付く」とある。なおこの通りについて「登大路町は東は東大寺南門通大路西側溝北向荒神之西、南は春日野行宮の北掘墻、西側は法雲院、北側は氷室社地の東、北側は吉城川南岸を限る」と記し、その間に芝居屋敷 富士垢離(くり)行家、大知院、愛染堂、木曽覚明古墳石塔、氷室神社、魅塚などのあることを詳しく記されている。明治22年発行の「平城坊目遺考」には「江戸時代にあった大智院や北向荒神社、宝蔵院、宝珠院などは明治維新の際廃社寺となり、登大路町と野田町が合併し、春日村となった。」
現在、猿沢池および辷り坂から一の鳥居を経て奈良国立博物館、奈良県庁、近鉄奈良駅前の地域、主としてもとの興福寺境内登大路となっており、さらに通称町名となっている。
興福地 藤原鎌足が京都の山階寺を創建したのがこの寺の起原で、橿原に移って厩阪寺となり、さらに平城遷都とともに現在地に藤原不比等によって移建され、名を興福寺と改めたのがこの寺である。この寺は藤原氏の氏寺であったが、聖武天皇が東金堂、光明皇后が五重塔
と西金堂を建立され、皇室の尊崇も厚くなり、官寺としての取扱いをうけることとなった
「奈良歴史案内」で興福寺が亀の寺であったと記し、興福寺の寺


地は「亀の甲」の形そのままして寺院をたてた。藤原卜部から出て来た民族であったためであろうであろうときしている。

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