「うのん」の気象歳時記ブログ

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山辺の道 奈良の街道色々

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「日本書記」武烈天皇(第25代天皇在位499~506)の条に
 布留をすぎ 薦枕(こもまくら)高橋をすぎ、物多(ものさわ)の大宅をすぎ
 春日(はるひ)の春日(かすが)をすぎ 妻籠(つまこも)る小佐保をすぎ 玉筍(たもけ)に飯さへり 玉怨(たまもひ)に水さへもり 泣きそぼちゆく 影媛あはれ
とある。これは武烈天皇が皇子であった時代、物部麁鹿日大連娘影姫(もののべあらかひおおむらかげひめ)をみそめ、三輪の海柘榴市(つばきいち)で会うことになっていたが、影媛に愛人平群鮪(へぐりのしび)があって、この会合をさまたげ鮪は乃楽(なら)山で大伴金村のために殺されたので石上の布留にいた影媛は愛人の後をおって布留から奈良山にいった時の歌としてのせられている。布留・高橋・春日・小佐保といった地名が今も残っている。これらの地名は大和高原の麓、南北に通じる70㍍80㍍の等高線にあるところで、この地名を結ぶ道のあったことを示している。「山辺の道」と呼んでいる道である。
「日本書記」に、崇神天皇の条にも山背(城)の武埴安彦とその妻吾田媛が帝京を襲おうとしたので天皇は大彦命と和珥臣の遠祖彦国葺とを遣わして武埴安彦をうたしめられた。そのとき、精兵を率いて那羅山(ならやま)に登った。草木をふみならしたので、この山をなずけて 「那羅山」というとある。多分和珥からこの山辺の道を通ったのであろう。
現在 布留・高橋川・和爾・山村・春日といったちめいが現存しており、この道にそって東に窪之庄古墳郡・山村古墳郡・古市古墳群といった6・7世紀の古墳があるばかりでなく、山村町に聖徳太子の弟、久米皇子の住居の跡という所や、欽明天皇元年(540)に百済国から渡来した巨知部氏(こちべ)の住居跡といわれる所なども残っている。平城遷都以前この辺りに和珥氏・小野氏・春日氏といった豪族が住み着いていたとかんがえられ 古墳から当時の遺物が出土している。
奈良時代に元正天皇が山村に御幸されたことは万葉集に天皇と舎人親往王の歌が長められている。
現在この道ぞいうには 鹿野園 古市 八島 横井 藤原 山村 菩提山 高樋 窪之庄といった地名がある。

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