「うのん」の気象歳時記ブログ

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奈良町 小史 色々



旧奈良の町は、平城京の外京と呼ばれた地域に生まれた町である。
外京というのは、平城京の左京の東に造成された地域で、一条から五条にいたる地域が東に延長され、五坊・六坊・七坊となったのである。
藤原不比等が氏寺としてた興福寺の南大門跡に立つと、西方にかつての平城宮跡がみえ、脚下に元興寺(もと飛鳥での蘇我氏の氏寺)があり、朱雀大路を中心に六条大路に沿って、飛鳥地方にあった薬師寺と大安寺(大官大寺)といった官寺を移した寺々も見える、こうした、もっとも見晴らしのよいところに藤原氏の氏寺として興福寺を建て、六坊大路と七条大路の間に元興寺、紀寺(紀氏の氏寺)を移している点などからすると、藤原不比等によって外京が計画されたのでないかとも考えられる。
平城京は和銅3年(710)から延暦3年(784)まで七代七十余年我が国の京師となり、東大寺をはじめ諸大寺や手向山八幡宮、春日神など輝かしい天平文化を生み育てたところで、その当時の人口二十万といわれているが、この間に東大寺・唐招提寺・法華寺・海龍寺王寺・菅原寺といった諸寺や、春日神社・率川神社・漢国神社・手向山八幡宮などが建立されているので、外京にはどれごどの人々が住みついていたかは確かではないが、こうした寺社に関係する人々も住んでいたでいただろうし、とくに寺院の僧侶たちは妻帯を許されていなかったので、いろいろ世話をする人々もいたであろうから、外京に寺院に関係のある人々の住んでいたことは明らかであろう。
 立ち易り 古きみやことなりぬれば
  道の芝草長く生ひにけり
と聖武天皇が恭仁京に都のうつされた後の平城京跡の様子を田辺福麻呂が歌った歌であるが、平安に移った後は、平城京はほとんど草原、あるいは水田と化してしまった。しかし、
藤原京と違って奈良時代に建立された諸社寺はそのまま残った。平安遷都後も、六坊大路を界として西方に社寺関係の人々がすみついて一つの郷をつくいりあげた。これが戦前の奈良の基となった奈良町である。
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