「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 十津川郷

桂又妙権太夫の話
伝え聞くとところによると、迫西川(せいにしかわ)では松木平(まつきひら)と則本(のりもと)の二つの姓だけじゃったらしい。
 迫西川は 西川上流の最奥山岳地域である。

外部資料

則本の始まりは、則本桂又妙権太夫という武士で、たしか平家の落ち人の子孫じゃったちゅうことじゃあ。
ところで、桂又権太夫という人は、小次郎ちゅう家来を一人つれておったそうじゃ。この小次郎という家来は、非常に腕がたつし忍術も使ったらしいが、たちが悪うてのう、桂又の家を追いだされてしもうたんじゃ。
ほんで、小次郎はいざさの谷の奥へ入って、大きな岩屋を築いて、そこに住まいをしとったんじゃあと。
この男は、忍術をつこうていろいろなものに化けて、魚とりに来た人や山仕事に来た人を殺したり、悪さばかりしよったらしい。迫西川には、師匠の桂又妙権太夫がおるよって、悪さをしに、よう来んのじゃが、小又川(こまたがわ)の方へ行って悪さばかりしよったんじゃあ。そんで、小又川の庄屋がかなわんようになって、迫西川の庄屋のところへ来て、「小次郎を征伐してくれるように、妙権太夫殿に頼んでくれんか。小又川の人間は、残酷な目におうてかなわん。」と言うわけじゃあ。さあ、それを聞いた迫西川の庄屋たも
「それは気の毒じゃよって、ほっておけん。」
と桂又にこの話をした。
「三年ほど前から体が悪うて、よう起きんのじゃが、あいつは、おれの家来じゃったが、たちの悪いやつじゃよって、ひまをやったんじゃ。そがあな、悪いことするんじゃったら、何ちかせんならんのう、何か方法がないものか、気の毒じゃのうら。」
と言うと起きてきたんじゃあ。



その時分は、寝る時の枕は木枕じゃたが、桂又は、自分が宝として持っておったサイバコ剣、一名ツルベ太刀ともいう刀を引き抜いて、木枕を宙にほうりあげ、その落ちてくるやつをパッパッと三つに切り、「ようし、これじゃったら、おおかたいけるじゃろう。」ちゅうて皆に案内させて、ぼつぼつ歩いて小次郎の岩屋へ出かけたんじゃあ。
行ってみると、まあ大きな岩屋じゃったらしい。そして、小次郎は、アメウオに化けて川でおよぎょうる、ハハン、小次郎のやつ、忍術を使うておるわいと師匠は見抜いて、
「小次郎、小次郎、おれは桂又妙権太夫じゃあ、用事があってきたんじゃあ、ちょっと上がってこんか。」ちゅうたら、小次郎は「ハイ、ハイ、師匠、ようきてくれました。」ちゅううて、岩の上からつりさげた鎖にすがって、あがってきたんじゃ。
「お師匠さん、久々の対面じゃが、なにか用事がありますか。」と小次郎。師匠は、
「いや小次郎、今日おまえに会いに来たのは、ほかでもない。おれもこの頃、体がわるうて、そう長く生きておれそうにもない。いつ往生するかもしれん。生きているうちにと思って、わしの宝のツルベ太刀を、お前にゆずっておきたいと思って持ってきたんじゃあ。」と言うと、小次郎が、「それは、ありがとうございます。」と言うと頭をさげたところへ、そのツルベ太刀をサット打ちおろして、みごとに小次郎の首を切ってしもうたんじゃ。
うまく計画どうりに小次郎を退治したので、皆よろこんで村にひきあげてきたんじゃあが、その後、妙権太夫は、どうなったのかわからんちゅうこっちゃ。
その時のツルベ太刀は、ずっと迫西川の氏神様の宝として伝えられてきたんじゃあが、水害で今のところへ氏神様を移したころから、わからんようになってしもうた。残念なことじゃあと、今でも思うとる。

外部資料(十津川玉置神社) 

                こんな感じの神社でしょうか?




■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14
■ ℡  0742-43-8152

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