「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 安倍文殊院のお話

安倍文殊院

外部資料

桜井市にある安倍文殊院は、日本三大文殊の第一霊場。ご本尊は、文殊菩薩といって、大きな獅子にまたがっており、高さは7m。鎌倉時代の有名な仏師である快慶の作で 日本一大きな知恵の仏様です。


ふつう仏様には、眉間の中心の丸いイボのようなもの(白毫)があるのですが、安倍の文殊さまには白毫がありません。


昔、青空の広がったのどかな小春日和の日のこと。安倍寺(文殊院の本山)の近くのお百姓が畑仕事をしていると、にわかに天気が変わり、空が黒い雨雲におおわれたとみるや、ものすごい雷が鳴りだしました。そのうえ、グラグラと山を動かし地をふるわす大地震がきたのです。お百姓はなすうべもいなく、ただただ地面にはいつくばって震えました。
すると突然、空のかなたからピカッと、一条の光が浅古という地にある石窟の方角に伸びて、突然にドカンと大きな音がしました。怖いものみたさの念にかられたお百姓が、おそるおそるそちらのほうへ行ってみると、石窟の中には一寸八分(約5.5㎝)の黄金の文殊菩薩が立っておられたのです。お顔はとてもやさしく、触れてみると、お体の温かいことは生きた人間のようです。お百姓は大変感激して、この仏様を安倍院に持って帰り、お寺のお坊さんに預けました。安倍院では、この文殊さまを祀る御堂を創建して、満願寺(文殊院の前身)と名付けました。

これを伝え聞いた快慶は、この文殊菩薩を深く信仰し、自らも7mの文殊菩薩御尊様を作りました。そして石窟から出現した黄金の文殊菩薩を、白毫のかわりに、その眉間に埋め込んだのです。
安倍の文殊さまに白毫がないのは、こんなわけです。
快慶の作った文殊菩薩は、白毫のない知恵の仏さまとして、しだいに有名になりました。今も全国からたくさんのお参りの人々で賑わっています。

外部資料 花絵


■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-140742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 橘寺のお話


橘寺

外部資料
明日香村、石舞台の西北に、橘寺はあります。この寺は、聖徳太子がお生まれになったという御殿を移したもので、太子創建七ヵ寺の一つに数えられています。橘の名前は田道間守がここに橘を植えたという伝説からきています。

外部資料


昔、上石第十一代の垂仁天皇ひゃ、どこかで不老長寿の国があることをお聞きになり、田道間守を呼んで、その国をさがすよう、そして国民のためにその不老長寿の元となるものを持ち帰ってくるように、お命じになりました。勅命をうけた田道間守は大変感激して、すぐさま日本を発ったのです。
そして十年、田道間守は海を越え谷を登り、苦しみの多い旅を続けましたが、どこにも不老長寿の国などみつかりません。ところがある時、田道間守は不思議な光景に出くわしました。それは若い娘が老人を叱りつけているのですが、ほんとうは、若い娘が母親で、老人はその息子だというのです。「この子だけは酸っぱくて嫌だとこれを食べないので、こんなに年を取ってしまったのです。」娘はそう言って、一つの木の実を示しました。田道間守は躍り上がって喜び、その不老長寿の実のなる木を数本譲り受けて、帰国の途につきました。

ところが、帰ってみると、すでに垂仁天皇はお亡くなりになっていたのです。田道間守は、御陵の前に泣き伏しました。そして持ち帰った木の実を両手でさしあげ、「お天子さま、ごらん下しませ。」とくり返し泣き叫びました。そして叫び続きながら、とうとう死んでしまったといことです。


この不老長寿の木というのが、橘なのです。橘寺のほか、帰国の船が着いた今の広島県福山市柳津にも、田道間守はこの木を植えました。そこには、橘神社という神社があります

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■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 岡寺のお話

西国三十三か所 七番札所 岡寺のお話です

外部資料
厄除最古のお寺です。


高市郡明日香村にある岡寺は、「厄除」の観音さんとして広く知られて、厄除祈願の人々の参詣が絶えません。このお寺はもともと龍蓋寺(りゅうがいじ)と云い、こんな伝説があります。
今から、千三百年以上も前のこと、悪い竜がいて人々を困らせていました。今のように田畑も整備されていない昔のこと、悪い竜が暴れるたびに大雨が降り、田畑はつぶれ、家も滅茶苦茶。何の貯えもない里人たちは、竜が何日も大暴れをする時など、生きた心地もしませんでした。
こんな時、後のこの寺を開いた義淵和尚(ぎえんおしょう)が必死に仏様を拝みました。そして和尚の法力に、悪竜はすっかりおとなしくなったのです。和尚は悪竜を池の中にに引き入れ、二度と暴れないようにと大石をのせて、石のうえに 「阿」という字を書いて封じこめました。それからはこの地も穏やかな里になったようですが、竜に石の蓋をした池というので、この池を龍蓋池といい、寺の龍蓋寺としたそうです。


この義淵というお坊さんは、良弁や行基の先生でも7あり、なんでもできた大層えらい僧でした。そして、この人がほかにも開いたお寺は、「龍門」とか、「龍福」とか、みんな「龍」の字がつくお寺ばかりです。
龍蓋池は今は本堂の前の小さな池ですが、この中には石を動かすと雨が降るといわれ、水不足の年は今でも村人がこの石を動かして雨を待つようです。

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 長谷寺のお話

桜井市 はせでらのお話

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天文6年(1537年)のことです。長谷寺では、全国から百人ばかりの絵の描けるお坊さんが集まって、本堂いっぱいの大きさの紙に本尊十一面観音のお姿を描き写すという作業が始められていました。これは長谷寺五十六世座主である弘深上人の発案によるもので、上人は戦いばかり続いている世の中を少しでも良くしたいと願われたのです。
ところがある朝、お坊さんたちは絵具をとうこうともしませず、不気味な顔を寄せ合っていました。にわかに米がなくなり今日はごはんが出せなくなった、明日もわからない・・・という噂が流れてきたからです。そういえば、寺から見える初瀬の町のどこにも、朝げの仕度をする煙がのぼっておりません。皆はとても空腹で、気が立っていました。
そこへバタバタと一人の小僧がかけてきました。小僧は、昨日足利将軍味方の軍勢がやってきて寺や町の家々の米麦穀物をすべて、兵糧として持ち去ったいきさつを説明しました。そして「でもご安心ください。ごはんはさしあげます。」といったのです。たった一粒の米が万倍百万倍にふえる不思議が、いま寺で起こっているからです。というのでした。お坊さん達は信じようとはしません。そこで、小僧は、長い回廊の先へ案内しました。そして 長谷寺の台所の外井戸を指さしました。そこでは、一人の娘が米をといでいました。こちらに咲き乱れるボタンの花畑があって、その向こうに、白い着物に赤いたすきがけをした娘が上半身が輝くように美しく見えています。といだ米を大ざるにあける。でも一粒の米を残して水でとぐと、たちまち米が桶にもりあがってくる。こうして娘はあさからずっと、皆のために米をとぎ続けているのでした。

皆は心から有難く、あの娘は観音さまの化身に違いないと思いました。だが娘はうつむいてばかりのので、顔が見えません。なんとか顔を上げさせようと、一人のお坊さんが小石を投げました。小石がカチンと井戸端にあたると共に、あたりは浄土のように光かがやいて、娘は手をとめ、そっと顔をあげました。だが皆は、胸がいっぱいになって、その場にひれ伏し拝むばかりでした。誰一人娘の顔をまともに見ることができなかったのです。
だあが、皆はしりません。その顔は娘のようにベッタリ白粉をつけていましたが、皆のために深い苦労をしているせいで、しわまみれの老婆の顔であったことを。
その日から百人の画僧は一心に仕事にうちこみ、みりみるうちに、見事な大画像が完成しました。今も長谷寺の境内には白粉婆のお堂があり その老婆がまつられています。



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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

西国三十三か所第六番札所の壷阪寺のお話を紹介です

昔むかし、会津若松に、暴れものの悪い竜が住んでいました。この竜が暴れるたびに激しい嵐が巻おこり、激しい雨が地上にたたきつけて、田畑の作物は全滅。人々は飢餓に苦しむのでした。こんな苦しい生活は嫌 人々は顔を合わせるとなんとか竜を懲らしめる方法はないか、話合いました。そこで誰彼ともなく けがれのない若い娘を人身御供すれば竜も鎮まるだろう ということになったのです。
選ばれて一人の男が、人身御供ちなる娘を探す旅にでました。そして そのはるか大和の国まで来て、ようやく望みどおりの浄かな娘を見つけました。浄らかなもの当然、その娘は壺阪寺の観音様を深く信心しておりました。男から事情を聞いた娘は、その村の人々に同情して慈心を起こして、人身御供となる決意をしました。そしてその男にともなわれ、会津若松までやってきました。
今日が最後という日、娘は遥かな壷阪寺の観音様にお別れをし、心から観音経を唱えております。やがて天地を砕くかのような轟音と共に、大竜が現れました。その竜はその娘を一飲みしようと、大きな口を開き、娘に近づきました。



だが、娘はひるまず、一心に観音経を読誦しています。すると、竜はその娘の姿におののいたように、竜は池の中に姿を隠してしまいました。
それ以来、竜は再び姿をあらわすことなく、会津若松の村の人々は平和な日々を送ることが出来ました。
大正か昭和の初めののころ 明日香村の人がこの古くからの伝えられてきた絵巻を押し絵にして、壷阪寺に奉納しました。



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