「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記元興寺の地蔵会

元興寺の地蔵会 8月23日24日

外部資料

外部資料
元興寺(極楽坊)はもと明日香の地に蘇我馬子が聖徳太子の協力を得て建てた我国最初の寺で、法興寺(一名飛鳥寺)と呼ばれていたが、和銅3年(710)都が平城にうつされるにつれ、この寺も現在の地に移建され、名を元興寺と改められたその僧坊の遺稿である。
元興寺は南都七大寺の一つに数えられ、六宗兼学の大寺として重きをなし、多くの名僧を輩出し、奈良仏教界に大きく貢献した寺であったが、平安遷都の後にしだいに衰え、境内は民家と変わっていった。しかし、平安時代の後期から勃興した浄土思想がこの僧坊に保存されていた智光曼荼羅と結び、奈良における浄土信仰が脚光を浴びるようになり、極楽坊として改造され、鎌倉時代の庶民信仰の道場として栄えるようになった。こうした浄土信仰が地蔵信仰とも結びつき、極楽坊は一層庶民信仰の寺として大衆に親しまれるようになった。
昭和18年からはじまった禅室・極楽坊の補修ならびに境内の発掘調査で庶民信仰の貴重な資料が続出し、現在、重要有形民族文化財といて収蔵庫に保存されている。
その中に多数の石地蔵が発掘され、その数だけでも三百を数えており、最も古い銘のあるのは大永5年(1525)で、主に室町時代末期のものが多数を占めている。なおこの他、鎌倉時代木造色彩の千本地蔵菩薩(約千体)板調採色千体地蔵菩薩(120面)板絵地蔵図像(9面)坐像(6枚)地蔵印仏(26枚)鎌倉時代に各町に祀られたといわれている木造地蔵菩薩(鶴町所有)や、天文15年(1546)宿院曼荼羅を中心とした浄土信仰とともに地蔵信仰の寺であったことがうかがわれる。
地蔵菩薩は仏教では釈迦入滅後弥勒菩薩の出現まで56億7千万年の間、俗界にあって人々の苦難を救う菩薩といわれ、また文字でしめされているように地の蔵、即ち地の神とも仰がれ、更に猿田彦とも結び、交通安全の菩薩とも称せられ、地獄に落ちる人々を救い、あるいは幼い子供を守護する菩薩ともいっわれ、道の四辻や草原の野辺にもたち、全国各地にまつられている。
ならでは7月23日24日に地蔵会式が行われ、色々の催しがあるが、ここ元興寺(極楽坊)では8月23日24日の両日にわたり会式が行われる。同坊に保存されている応永年間の地蔵菩薩印仏の紙背に8月24日の記があることから、現在も8月に行っているという。「大乗院寺社雑事記」にも、5月6日に夏中毎日百体地蔵を、明応7年(1498)5月26日には地蔵60体が摺られたことがきされている。
地蔵会は昭和23年に復興された。復興当時は会式の当日、境内に櫓を組み盆踊りが催されていたが、全国各地の有名人の結縁により、この会式に書画がよせられるようになっつぁのと、盆踊りが各所に催されるようになったので盆踊りは現在は行われいない。
会式の23日24日には本堂中央の智光曼荼羅の前に、鎌倉時代と室町時代の地蔵菩薩など
6体をまつり、季節の果物、菓子などを供え、堂内に各地から奉納の書画をはった「あんどん」に明かりを入れ、一光流の生け花、細川流の盆石が奉納される。午後5時から本堂の地蔵真言などを唱えて地蔵菩薩の功徳を讃え最後に信者の無病息災を祈る。これが終わると、境内に安置されている三百有余の石地蔵尊に対し、再びその功徳をたたえ、出世6地蔵の前で血縁者たちの亡者の冥福を祈る。「水塔姿」の供養がある。23日は夕方から夜にかけて、夜店、映画界などがあり、有縁の方々の参詣者で境内は賑わう。


大和の年中行事から 詳しくはHPをご参考ください。

■住所 奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡ 0742-43-8152

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記「大柳生の太鼓踊り」

大柳生の太鼓踊り

外部資料

大柳生の里に祭られている夜支布山口神社は、スサノオの命を祭神とする水のかみさまだという。上出 塔坂 西の三垣内が宮座をつくり、永く敬虔に祭祀を営んでいる。この宮座は年長順に二十人が二十人衆とよばれ、一年交代で順番に当屋をつとめる。十一月一日に頭渡しがあって、前の当屋から「回り明神」を受ける。そのしるしは鳥帽子と麻の装束であるが、これを太い真竹で組んだ60センチ立方ぐらいの屋形に納め、当屋の座敷の天井につるしてまつる。
回りの明神を受けると、そのものは明神さんと一体となって神格をもつのである。したがって一年間は厳粛な精進潔斎をする。頭人は回り明神を祭った一室で、女人禁制でひとり起居し、ケガレの場所に出入りしたり 旅に出ることは禁じられ、別火するとともに肉類やくさ味のあるものはいっさい口にしない。毎月一日 十一日 二十一日は「旬の参拝」といい、口に榊の葉をくわえ、誰からの問かけにも答えず、山口神社に参詣し、神饌をお供えする。
神社の大祭は十月十八日であるが 八月十七ガトウ(賀当)といいその夜当屋の庭で盛大な太鼓踊りが催される。賀当の日の踊りであるので「賀当踊り」とも呼んでいる。当屋の回っている垣内の若衆が会所に集まって、そろいのいでたちに白鉢巻き、背に大きなシナイ(幣)を負い、胸に小太鼓をつけ、太鼓を打ちながら賀当の庭に繰り込む。玉串奉鄭 口上などの儀があって、いよいよ八時ごろから踊りがくりひろげられる。
中踊の踊り手は八人、紺じゅばんに手甲脚絆 ぞうりばきに カンコ(鼓太鼓)を胸につけ、手にバチ シナイをつけている。シナイの房はヒノキを薄く削って作ったもの。大太鼓を打つオオダイは四人 踊り手と同じ衣装で、御幣を背負いバチを持つ。ウタアゲ三人、羽織袴で手に先を赤、青に染めたシナイを持つ。ほかに笛二人、鉦の音がはいり 踊り手がカンコを打ちながら、趯。踊りは二列になった踊り手が左右に行きかわし足を踏みならしながら跳躍乱舞する。実に勇壮な踊りで、踊り手は汗びっしょり、こうした踊りが一通りがすんだあと庭では、村人たちの相撲、盆踊りに移る。いわゆる盆踊りで江州音頭なども踊られる。
太鼓踊りが毎年踊られているのは、上柳生がもっと代表的であるが、もとは、やまと大和の東山中から吉野にかけて、また国中でも石上社や和邇社、大神社などの神社を中心とする郷社で盛んに行われた。一般にナモで踊りあるいはイサミ踊りといい、主として雨乞いにイサミ、その満願御礼にナモデをおどった。名称はちがうがみな同じ踊りで、その性格は田植えのときの田楽が風流化し念仏踊りと習合した民族芸能で、その源流は郷村制成立期の京都に求められ、山城を経て大和の東山中に伝播し、各地域にひろまった。


詳しい日程についてはHP等でお調べください

■住所 奈良県奈良市七条1丁目11-4
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薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記「阪本踊り」

阪本踊り 

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盆になると、大塔村の阪本、小代、簾、天辻、中原、天川村の塩野 塩谷地区では、風流踊りに夜をあかす。昔は旧盆の17日の前後から、盆の月中および八朔、旧8月15日夜の月見などに地蔵堂や薬師堂、あるいはお宮の庭などで踊られた。
踊りの中に「政吉」というのがある。この踊りは大勢の村人の身代わりになって刑死した中村政吉という義侠の霊をなぐさめるためにはじめられたといい、音頭も政吉をうたっている。数百年前阪本へ淡路から文蔵という木挽(びき)がかせぎにきた。彼は大変美男子だったので、村の娘はみな懸想した。そこで阪本 小代の若衆が、木挽小屋で昼寝をしていた文蔵を襲い簀巻きにして天川に沈めた。このことが淡路の殿様に聞こえ、阪本、小代の男子全員が逮捕され、調べがながびきみな生活に困った。このとき阪本の中村屋に生まれた政吉が名乗り出て 罪を一身に引き受け、村人たちはみな放免された。その恩返しに、4月29日に墓前で踊りを奉納する。
ひろく知られるのに、「天誅踊」がある。白鉢巻に白筒袖、袴の股立をとり、帯刀した男6人 扇を持った女9人がそれぞれ寄って同じ一つの輪になる。勇壮活発な踊りで、幕末に統幕挙兵の先がけをなした天誅組の壮絶と活躍をうたった踊りで、郷土の特色をあらわしている。

住所 奈良県奈良市七条1丁目11-14
電話 0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 十津川

十津川 大踊り 8月13日~15日

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奥吉野十津川では、中世以来の伝統をもつ風流踊りが今に伝えられ、あちらこちらの村で毎年行われている。その代表的なものが十津川村の武蔵・小原・西川で盆踊りとして踊られる「大踊り」である。
8月13日は小原の大踊りで、午後8時ごろから12時ごろまで、小学校の校庭で踊られる。8月14日は武蔵の大踊りで、夕刻から夜中の2時ごろまで、旧小学校の校庭で踊りあかす。8月15日は西川の大踊りで、午後7時ごとから12時ごろまで小学校の校庭で踊られる。大踊りというのは各種の踊りの最後に踊られるもっとも重要な踊りである。


武蔵ではかつて光明寺の境内で踊られたが、いまは旧小学校の校庭に大きな櫓を組んで、音頭取りがその上で音頭をとり、そのまわりに輪になって盛大に踊る。盆踊りの曲名としては、お松くどき お杉くどき 花づくし、笠づくし 笠踊り、おかげ踊りをはあじめとして三十余曲ある。その最後に大踊りがあり、いまは「大踊り歌」一曲を踊るが、かつでは「十三四五」「鎌倉踊」「御城踊」なども踊られた。


この大踊りは他の踊りと異なり、男子が太鼓持ちに分かれ、女子が襷がけで扇子を手にし、さらに笹竹に切子灯籠を吊り下げた灯籠持ちが列をつくって横に並ぶ。そして男女の音頭取りがかけ合いで唄をうたう。その調子ははじめゆっくり、後半のセメの部分にんるとテンポが早くなり、踊りも躍動する。踊りの輪の内側では、太鼓打ちが赤・青に染分けた房のついたバチを振り上げ、はねるようにして太鼓を打つ。灯籠持ちは踊りの場を駆け巡り、踊りの雰囲気を盛り上げる。かつてはこの灯籠を最後に焼いたという。すなわち盆の灯籠送りの作法をおこなったのである。また、女性や百姓姿に扮した道化者も登場することもあったという。これこそ風流の一要素であった。この「大踊り」の歌詞のなかでとくに注目されるのは「なにとてちごにしやぐまを着せにや」という歌詞である。稚児に赤熊をきせるということは、中世以来畿内にひろく踊られた風流踊りの重要な要素で「早馬」と称する子供の集団が、唐子衣装などで扮装をおらし、頭に赤熊をかぶって踊りの輪の中で跳躍乱舞、ときには駆け巡る役のあったことを物語る。また「なみあぶだぶつ さあおどらいで」というのも、あきらかに念仏踊りの系譜をひくものであることを物語っている。すなわち 大踊りは、田楽に念仏踊りが習合し風流化した踊りであることが明らかで「吐山の大踊り」「大柳生の太鼓踊り」や各地の「いさみ踊り」「なもて踊り」などと一連の風流踊りであることがあきらかである。

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大文字送り火 8月15日 奈良市高円山

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奈良の大文字送り火は昭和35年(1960年)8月15日から当時の知事の発願によってはじめられ 36年からは行事の主催が新しく組織された奈良大文字保存会にうつされた。
奈良市の東方、春日山の南につづく高円山の山腹に太く大きく点火される「大」の文字は夏の夜空にくっきりと浮かびあがって、早春の若草山焼きと対称する奈良のもう一編の風物誌である。
大文字送り火は古くから京都や箱根などで行われて、盆の翌日に冥府にかえる精霊を送る行事とされているが、奈良県のは盂蘭盆会(うらぼんえ)の当夜、諸霊を慰めることが行事の精神となっている。「大」の字は宇宙を意味し、諸霊ひいては人を意味し、人体にひそむ七十五法という煩悩性の焼却と、諸霊に供養する清浄心を表したものであるといわれている。


大文字の送り火の場所として選ばれた高円山は、かつては聖武天皇が離宮を営まれた所であり、また弘法大師の師、大安寺の僧勤操(ごんぞう)大徳が岩淵寺を開かれた由緒ある地である。さらに、殉国の英霊をまつる護国神社のま近にある山として、送り火には格好の位置となっている。終戦記念日の日に当たっていることも意義を有する。


「大」の字は、一角の「一」が百九メートル、二角の「ノ)が百六十四メートル 三角の「ヽ」が百二十八メートルで、日本一大規模なものであるといわれている。火床は108穴に松割木を十余束積み上げて、その間には枯葉が入れられる。大の字の中心を金尾といって、ここにはこれからの割木が数組にまとめて置かれている。


この日、午後六時から奈良公園の飛火野で、大文字慰霊祭おごそかに執りおこなわれる。まず、春日大社宮司が斎主となり、奏楽と共に神式の祭典がある。ついで午後七時からは、市内三十四か所の僧侶の出仕による仏式の慰霊祭が行われ、奈良県出身戦没者三万余柱の英霊の戒名が声高らかに読みあげられる。そして、遺族及び一般の線香があって式が終わる。
この慰霊祭の進行とともに、午後8時、高円山大文字の火床は指揮者の合図によって一斉に点火されるのである。これらは高円山にゆかりの山麓の百毫寺町の奉仕によっているという。 三、四分も燃え続ける大文字の火は奈良県各地はもちろん 遠く京都府南部からも望まれる


東大寺燈花会 大文字送り火を見られた後 東大寺周辺でも合掌です。

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