「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「僧慶円と竜の玉」(そうけいえんとりゅうのたま)

いまから六百年ほど前のことです。三輪山のふもとに、信心深い慶円という坊さんが住んでおられました。
慶円は室生で勉強し、弘法大師の生まれかわりだといわれたほど、偉い人でした。
ある日、久米仙人が女の人を見て、空から落ちたという川のほとりを通りかかられました。日は暮れかかっていましたが、そこには、またきれいな女の人がいました。
「あなたは、いまごろ こんな所で、何をしているんですか」
と慶円がたずねられますと、女はこちらを向きました。それは竜が女が竜に化けているのですが、慶円にはそれがよくわかっていました。
見やぶられた竜女は
「わたしは天に登りたいのですが、仏の教えを知りませんので、登れないのです。それであなたに仏の教えを聞こうと思って待っていました」
といいました。
そこで、慶円は仏の教えをくわしく説いてやりました。女は大そう喜んでお礼をいい、お礼のしるしにといって、美しい宝の玉を渡し、やがて竜の姿をあらわして天へ登ってしまいました。
竜を教化した慶円は、竜の玉をもらって、三輪山の平等寺に帰りまして、付近の人から父母のごとく慕われていました。
慶円が亡くなる時には、栗殿(おうどの)の極楽寺の松の上に、五色の雲がかかり、不思議な音楽がきこえ、二十五菩薩の来迎がありました。
墓には、今も竜からもらった竜の玉が入れてあるといいます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
十二支の内現在する十一の動物に加え、五番目に想像上の動物タツのあるのも面白い。
「龍」-多都ー雷神―蛇神ー降庄の神ー水の神ー豊作の神ー即為政者の徳と考え併せると「龍」への信仰は畏敬と崇敬の入り交じった複雑なものであったのであろう。62年5月の新聞「余禄に東洋の竜と西洋の竜はまるで違う と昨年(61年)亡くなったアルゼンチンの作家ボルヘスの竜に関しての意見を載せている。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「黄金の鎧の落武者」

今はなくなっています、むかしは三輪山の南のふもとに、平等寺という大きなお寺がありました。
関東の徳川方と、関西の豊臣方と天下分け目の戦いであった関ヶ原の合戦で、西方が負けて黄金の鎧を着た落武者が一人、この寺へやってきました。
「どうか、しばらく、かくまってください」
と頼みましたが、昔はお寺へ武士は入れられませんので、ここの坊さんは、落武者の頭を丸めて坊主頭にし、お寺へかくまってやることになりました。ところが、そこへ追手の武士がきて、
「ここへ落武者の頭を丸めて坊主頭にし、お寺へかくまってやることになりました。ところが、そこへ追手の武士がきて、
「ここへ落武者がきなかったか」
とたずねました。坊さんは、
「ここはお寺だから、そんなさむらいは一人もおりません。お前さんもさむらいだから早く、寺から出てください。」
といって追いはらいました。それを横で、前の落武者は、みそをすりながら聞いていたということです。
あぶない一命を助けられた落武者は、いくさが終わってから、国へ帰り、その礼として毎年平等院へ米四十石(約60キログラム)を行列を作って持ってきたといいます。また、その時、お寺へ置いておいた黄金作りのよろいは長らくお寺に伝わっていましたが、いゆか盗人にとられてしまったということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
インド 中国の竜の信仰は密教の発達によって我が国へも簡単に受け入れられた。このことに先立ち蛇神への民族信仰が既にあったことが「常陸国風土記」にみられる。夜刀の神はその形は蛇鼻にて頭に角あり また別に角のある大蛇の話も出ている。当時すでに竜形のものが想像されて竜の語はすでに斉明紀(662~671)元年五月の条に 空の中に龍に乗れる者有りて云々とあって「和名妙」にはこれを「多都」(タツ)と読ませている。タツとはカンダチ・ユウダチ(共に雷 雷神)の語と考え合わせると神霊の顕現を意味するものと考えられ 古人が雷鳴や電光を神一竜神の出現と考えた名残である。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「箸中長者と荒坂長者」(はしなかちょうじゃ と あらさかちょうじゃ)


桜井市箸中にある大きな御陵のような前方後円の古墳は「やまととひももそ姫」のお墓だといわれていますが、一般には、「箸の墓」とよばれており、次のような伝説があります。
むかし、箸中に箸中長者とよばれる長者がいました。この長者のお家には、大きくも小さくもならない「金のあなる木」がありました。
毎日毎日、お金がふえる一方で、長者はあきあきしてきましたので、一度貧乏をしてみたいと思いました。
毎日、三度の食事の時の箸を捨てると天罰で貧乏になれるということを思いついたので、そのようにしてみました。
その捨てた箸の山が今の「箸の墓」だというのです。そのために、箸中長者はとうとう貧乏になってしまったことは、いうまでもありません。


これと同じような話が、五条の今井町にもあります。
近内から五条の方へ行く道の荒坂峠に、むかし、荒坂長者という長者がいました。この長者もお金がありすぎるので、どうかしてこのお金をすくなくするようにと思って、毎日の三度のご飯の度に箸を代えて食べることにし、一度使った箸は同じ場所に捨てさしました。
それで、ついにお箸の塚ができたそうです。それと共に、さすがの長者の家運も傾いてきて、没落してしまったことは、箸中長者と同じことです。