お勧めの本 ならら 9月号です 豊臣秀吉の弟 秀長 奈良を僧侶が守ってきたが 秀長によって武家の秩序が入ってきた。 郡山城は筒井順慶の城であったが 武士の勢力で追い出され 秀長が城主となった。 秀吉による秀長自害の命により 秀長の妻子供たちも亡くなった。 妻 子供たちの墓は近鉄 尼ヶ辻駅 南東徒... 続きをみる
2022年8月のブログ記事
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矢継の森 昔聖徳太子が居を定めるによい土地を求め、矢を放ってその地を定めようと、南から乾のほうを向いて矢を放たれた。その矢が今の矢継の森に落ちた。だがまだよくないと、ふたたびそこから矢を射られると今の法隆寺のところに落ちたので、そこを永住の地と定められたという。矢継の森には今も「矢継さん」という祠... 続きをみる
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箸墓古墳は卑弥呼の墓 外部資料 外部資料 三輪山の北西側の前方後円墳 この辺りは多くの古墳がある。 その一つが箸墓古墳です。 ここに祀られているのは このの域の豪族の娘の墓を箸墓といわれている。 この姫は大物主神の妻となったが、夜だけやってきて、昼には姿をみせないため、この姫は夫を怪しんで、夫の真... 続きをみる
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外部資料 布留に昔、一人の婦人がいた。冬に菅田の森を通ると、一匹の小狐が子をかかえながら、乳がなくて困っているのに会った。婦人は狐をあわれんで、毎夜そこに通って小狐に乳ををやった。狐はそのお礼に一口の剣を婦人に贈った。この剣は、狐が刀鍛冶の弟子に化けて向こう槌を打ってつくったもので、のちの宝剣小狐... 続きをみる
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大和郡山市の南 昔の筒井村に一軒の茶屋があった。十八になる こま という生娘がいた。娘は毎日ここを通って大阪に通う二十四、五の業平を思わせるような美男子の飛脚を恋い慕うようになった。ある日、飛脚が夕方おそく通りかかったので、娘は無理に男を泊まらせた。夜更けて娘は異様な姿をして飛脚の部屋に忍びこんだ... 続きをみる
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外部資料 洞泉寺の境内に垢かき地蔵がある。昔、郡山城主大納言秀長と洞泉寺開山宝誉上人が、天正14年(1586)六月十四日夜の卯の刻に、同じ夢を見た。その夢に教えられて郡山城大書院西庭の沓脱石を掘り起こすと、それは立派な地蔵像であった。寺社奉行に命じて調べさすと、光明皇后祈願の垢かき地蔵尊であった。... 続きをみる
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外部資料 大和郡山は、県下随一の城跡をもつ典型的な城下町である。「洞が峠の順慶」といわれるように、豊臣秀吉の山崎合戦で汚名をうけた筒井順慶が最初の城主。のち秀吉の弟秀長が封ぜられてから、いらい城主はたびたびかわるが、一時は奈良を圧する繁栄を示し、享保以後は柳沢氏15万石の居城であった。この郡山城三... 続きをみる
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