うのんのブログ

奈良西の京薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くから うのん から 今週のお勧めの本

西暦1,100年からの鹿にまつわる記録です
また一部ですが西暦110年からのモノも記載されています。
奈良では鹿は珍しくなく 共生しています。その鹿の存在は 昔から奈良の人々には大きく また大切にされていたことがよくわかります。

薬師寺近くから 大和の気象歳事記No.306 壬申の乱

 外部資料

矢治峠
大海人皇子等一行が吉野営のあったと考えられる宮滝を出発し矢治峠を越えて「津振川に逮りて」とあり 現在の津風呂湖畔に出る。矢地峠の道は人一人が通れる程の急な雪道で道標が整備されていた。きつい坂道に一呼吸を入れうしろを振り返ると豊かな水量の高見川が流れていた。峠絶頂に立つと涼しい風が吹き抜けて眼下に津風呂湖が展いている。壬申の道を歩く場合この峠道が最も難所で あとは 急な勾配の坂道を下ると湖畔の周遊路に降り立つ事が出来る。少し西に進むと津風呂春日神社が在る 湖畔を左に見て旧津振川上流に向うと湖の最終端に子安地蔵堂がある。一般に蓮花座に乗る地蔵菩薩であるがここの地蔵さんは亀の背に乗る珍しい塑像の地蔵尊像である。


薬師寺近くから 大和の気象歳事記No.305 壬申の乱

宮滝遺跡②
天武天皇のよき人のよしとよく見てよしと言ひー 吉野よく見よよき人よく見つ の歌もこの宮滝で詠んだ歌という。国の史跡に指定されており出土品は近くの中荘小学校に展示されている。郷土資料辞典より 吉野の宮がなぜ宮滝なのか 日本書記応神天皇の条には吉野の宮滝に行幸したことが 雄略二年には「吉野の宮の幸す.」とあり 四年春にはかに有名な一言神社と会った後 「秋吉野に幸す。」とあって何等かの形で吉野の宮が存在したことが判る。更に斉明天武天皇二年には「吉野の宮を作り給ふ」とあってこのころ吉野の宮が確定されたものと思われる。さらに天智天皇十年十月大海人皇子は天智天皇の許しを得て吉野に入り給わった。以上述べてきた「吉野」が現在顕彰碑が建つ宮滝かどうかは分からない。宮滝が注目を集め出したのは江戸時代からだそうで 当然多くの先生方が解析を試みられ研究と調査が続くでしょう。ここでは昭和5年秋から約10年間故末永博士が発掘調査されたその時点では吉野宮滝が当該地であると断定できなかった。ところが最近の調査で天武・持統朝のものと思われる掘立柱列跡が検出され吉野宮跡としてより有力な資料が提出された。