外部資料 お休み予定 4日(日)5日(月) 11日(日)12日(月) 18日(日)19日(月) 25日(日)26日(月) 貸切り 14日(水)おしゃべり会 21日(水)パーソナルカラー診断 イベント予定 17日(土)パーソナルカラー講座&診断 午後1:30~3:30 少人数で行います... 続きをみる
2018年10月のブログ記事
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昨日の続きです 真草刈る荒野にはあれどもみち葉の過ぎにし君が形見とぞ来し 東の野にかきろひの立つ見えてかへりみすれば西渡きぬ 日並の皇子の尊の馬なめてみかりたたしし時は来向ふ (佐々木信綱編 岩波文庫 万葉集) 昭和15年 紀元2600年記念事業に建てられた大和国史館現在の奈良県立橿原考古博物... 続きをみる
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大海人皇太子が通ったとされる大宇陀町上新の石碑には 真草苅る 荒野にはあれど「黄」葉の過ぎにし君が形見とぞ来し 甘羅村を現在の曽爾村に求める人が居る。また桜井から女寄峠を下って来て宇陀川に接する野依の北西にある小字「カフラ」を指す人もある。 阿紀神社には天照皇大神他八神を祀り杉木立におおわれた... 続きをみる
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奈良県発行の本です。 奈良 大和の知らせざる魅力を感じてください。 観光パッフレットでよく見る写真 池のポイント辺りから 東大寺大仏殿も見えるポイント見つけてください。 八千年前に人が住んでいた所です
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阿紀神社 甘羅村 日本書紀によると 大海人皇子一行は 即日 菟田の吾城に到る。とある。いまは大宇陀町迫間字吾城野にある阿紀神社付近であろうか そこで一行は食事を取っている。屯田司の舎人 土師連馬手により用意されたものと云うが おそらく 先達の先触によるものであろう。菟田の吾城で食事を取った一行は甘... 続きをみる
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私の宮滝遺跡調査経験 一回目の実地踏査に出発した。その後回を重ねる踏査されている。数回の壬申の乱の道地踏査に際しいずれも宮滝を出発し矢治峠菟田郡家を過ぎて現在の名張まで 更に美濃から今の滋賀県を通過大和嶋宮へ帰りついている。いま私達は出発点が奈良というハンディキャップを抱えとも角宮滝着を10時に予... 続きをみる
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西暦1,100年からの鹿にまつわる記録です また一部ですが西暦110年からのモノも記載されています。 奈良では鹿は珍しくなく 共生しています。その鹿の存在は 昔から奈良の人々には大きく また大切にされていたことがよくわかります。
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外部資料 矢治峠 大海人皇子等一行が吉野営のあったと考えられる宮滝を出発し矢治峠を越えて「津振川に逮りて」とあり 現在の津風呂湖畔に出る。矢地峠の道は人一人が通れる程の急な雪道で道標が整備されていた。きつい坂道に一呼吸を入れうしろを振り返ると豊かな水量の高見川が流れていた。峠絶頂に立つと涼しい風... 続きをみる
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宮滝遺跡② 天武天皇のよき人のよしとよく見てよしと言ひー 吉野よく見よよき人よく見つ の歌もこの宮滝で詠んだ歌という。国の史跡に指定されており出土品は近くの中荘小学校に展示されている。郷土資料辞典より 吉野の宮がなぜ宮滝なのか 日本書記応神天皇の条には吉野の宮滝に行幸したことが 雄略二年には「吉野... 続きをみる
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宮滝遺跡 「壬申の乱」の道県内を歩く 宮滝遺跡については 最近新しい発見があり 史実が明らかになった。以前歩き尋ねた時点でまとめた内容ですがそれをブログに載せます。 上市から吉野川に沿って約5㎞ほどさかのぼった吉野川北側に宮滝遺跡がある。このあたり吉野川は巨岩怪石が両岸に迫り川は急にせばまれ また... 続きをみる
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10年前の正倉院展のカタログです 正倉院の宝物は聖武天皇の崩御のあと光明皇后が東大寺に奉納された品々です 正倉院展を通じて奈良時代が身近に感じることが出来る品々の内容です。
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天気俚言 秋の夕焼鎌を研げ 明日は天気が快いから農良仕事の準備をしておく様に と云う俚言であって 夕焼けが明日の天気を予告してくる全国的に有名なものである。夕焼けから見られる空は 太陽の光が空気の分子や細塵のために錯乱されて起こる現象であって 夕焼けの現れる西の空には雲が無く晴れていることが夕焼... 続きをみる
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正倉院宝物 宝物は今日までほぼ完全な形で保存されてきた理由の一つに厳重な勅封の制が大きい。次に校倉造りの宝倉という特徴がある。昭和55年3月に刊行された正倉院年報第三号「正倉委9ンの三十年」」サブタイトル=近年の宝物保存関係の事業について=と題して私達が取り組んできた校倉造り宝庫の気象状態調査結... 続きをみる
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正倉院の気象 曝涼に学 昭和52年春書店の福住さんの肝いりで「入門奈良学講座」が始まった。 その年の秋 正倉院事務所調査室長 関根氏は同講座で「正倉院宝物の伝来」と題して講演があった。講演の要旨は 正倉院と宝物 の概要説明があって どうも正倉院の基本的なことが案外わかってないのではないかと思われ... 続きをみる
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紅葉前線は山から降りてくる 奈良県下は平地部 山間部と所変われば 気候も随分違う。更に山岳部では更に違ってくる。 10月の初め 奈良市内では15℃で出発し月末には 9℃ 曽爾高原では月始め12℃を割り 月末のには6℃ みたらい渓谷に近い天川村洞川では10℃近くから5℃を下回る。大台ヶ原では月始め9... 続きをみる
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初霜の降りるおおよその目安 初霜は風も穏やかな冷え込みの強い朝 焼けぼつくいの黒い表面に脱殻した掬がらの上によく目立ち風通しのよい高みには窪地や陰地に降り易い 以前大宇陀で霜の降る状況を調べたことがある。宇陀川沿いの細長い平地には早くから霜は降りるが 川から離れた山側では数日遅れて霜の観測を記録... 続きをみる
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奈良時代の多種多様な宝物をそのまま現代に伝える 正倉院 天平文化の宝庫です。 その収蔵物は海外からのものが多く含まれています。こぬした各種の文化的宝が集められ時代を越えて伝えられたのは何故か エピソードを加え解明されている内容の本です。
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二十四節気を分解して七十二候に仕立てあげたものがある。 二十四節気誕生の由来は黄河上流に都があったころ作られ我が国へは飛鳥時代 中国の「元喜暦」と共に百済を経て渡来した。黄河流域の季節をベースにしている為我が国の季節感とは必ずしも一致いない。二文字で表した二十四節気の中に唯一虫を扱った啓蟄等難解な... 続きをみる
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二十四節気 我が国は南北に長い。季節変化が明瞭に表われる国である。春夏秋冬の四季に加え梅雨期と秋霖期を挿入される。二十四節気は純然たる暦学上のもので 移りゆく四季を二十四の節気に分け立春に始まり大寒まで四季のよすがを語るものとして暦に載っている。 二十四節気の説明として代表的ともいえる天明八年(1... 続きをみる
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早い年には9月後半から10月初旬になると 毎年決まった様にシンビジュムの花が一斉に咲き出す。咲き出すと言うよりも匂い出すと云う方が正しいかも 道で芳香を愉しむのは この頃でしょうか シンビジュムの花が咲き出すと苺農家では冷涼な山中に仮植してあった苺苗を里へ移植し定植が始まる。苺苗の植え替えはシンビ... 続きをみる
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十月の気候 旧奈良市内という言葉が今はあまり耳にすることがなくなりました 〒番号が630の所と聞いてます。 その奈良は冬の朝の冷え込みは京都より寒く 大阪などから引っ越して来た人々は咆驚する人も多い。また夏には熱帯夜のように熱く寒暖の差が大きい。 奈良は京阪神 大阪 京都 神戸 と比べ 雨量は... 続きをみる
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十月の気温と各地の気候 この図は月の始めから月末にかけて 最高と最低の平均気温変化を図で示した。場所は「奈良」と「針」の二カ所 この様な気温の図をみると なにとはなしに判った様な気がする。しかしこの気温の変化には次の様なことが隠されている。 もともと上の図は一最高 最低気温平均気温変化図一日ごとの... 続きをみる
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天高く 食欲の秋 秋の空は髙い。夏の間 充分な熱と湿気を吸い込んだ樹木と草〃はよく繁茂して地上から舞い上がるホコリをおさえ 十月も中葉ごろからは冷気を含んだ乾いた空気は空を高く見せる。空気が乾いてチリの量の少ない大気の塊まりは日光が空気中を通過するとき、波長の短い青や紫の光が散乱して目に入り込む... 続きをみる
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天高く馬食欲の秋? 五穀豊穣の秋 食欲はそそられるものに松茸がある。高価なので香りだけでも・・・ 奈良県内にも赤松が沢山植わった松茸山があちらこちらにあった。赤松の林に新しい縄が取り囲む様に張ってあったのも昔話になり今は殆ど姿を消した。 松茸は開いた裏側のひだから飛出した胞子が地表近くに伸びた... 続きをみる