「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
徳治思想と祈雨
皇極記に続き 天皇が親ら神を祭ることは、後世永く行われた。延歴七年(788)四月十六日桓武天皇が「沐浴出庭親祈」と続日本紀にある。旱災を含めて自然の災害はすべて為者の徳の至らざる故とする中国の徳治思想は八世紀には普通のことであった。例えば元正天皇と養老六年(722)七月七日詔を出され「日照りが続いて雨をみないのは朕之薄徳のためであろうか。百姓に何罪ありてか云々」と更に大赦令を出され、酒肉を禁じ 高齢者に勤労の軽減 また罪を軽く 或いは免税」するなどし、聖武天皇四年「732)七月五日と聖武天皇九年(737)五月十九日元正天応天皇と同じ趣旨の詔りをだされ 天地陰陽の動きを順当ならしめ風雨時に順うようにすることが天皇の義務と考えられていた。天下の災いを畏れて行いをつつしむべきは独り天皇だけでなく、国の使をたる者もまたその義務があった。弘仁五年(814)七月二十五日蘇我天皇は勅して諸国の使を戒められた。「禍福の興る所は必ず国使による」とその心がけを説き旱あれば官長は潔奈し雨を祈るべきであるとされている。(日本後紀)菅原道真が夜道亦森で会った仁和四年(888)五月旱天に雨を神に祈った祭文が「菅家文書」に載せられ地方管の重要な任務の一つであった。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「車返し」

天理市の田部(たべ)から川原城へ通じる奈良初瀬街道に車返しというところがあります。
明治のおわりごろまでは、八町なわてという野中の道で、その道を横ぎって東から川が流れていてそこに車返しの青石橋というのが、かかっていました。
今は人家や天理教の教会が建ちならんで北に東本大教会、南に筑紫大教会が建っています。
むかし、田村将軍が車に乗って、ここを通りかかりますと、にわかに車があとがえりをして、進まなくなりますた。そこへ白髪のうらない者が通りかかりまして、
「これは、西の方の八条村にある菅田(すがた)のお客さんが、東を向いておられるのに、その前を甲冑(かっちゅう)で通ろうとするからでございます。」
とうらないました。それで人をつかわして、お客さんを南向きにしますと、車はまた進みだしたと申します。それからここを車返しというようになります。


この伝説にある菅田神社は、事実この車返しから西方4㌔のところにあり、南面しておられます。
なお、車返しには、京都から勅使が大和神社へおまいる途中、このあたりで、何か事件か、戦争かがあって物騒だったので、ちょくはここから京へ車を引き返しました。それで、ここを車返しというようになったともいいます。


大和神社のちゃんちゃん祭(4月1日)の時に出す千代山鉾というのはこの勅使の代わりであるといわれています。
むかし、だれかえらい人が牛車に乗ってここを通った時に、何かここで車をかえさねばならん事故があって、車返しという地名ができ、こんな伝説が生まれたのではないかと思われます。

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大和の雨乞の歴史
雨を祈るには水辺で行なう必要があると考えられていたのであろう。跪拝四方 仰天祈雨は後世の四方拝を思わせるが、皇極帝が脱拝した場所が宮山宇佐さんと比定する説が阿り徳治思想が充実していたことが判る。ともあれ渡来系氏族が早くから定住し他地域に較べ文化が進んでいた。
明治の初年まで雨乞のナモデを「本庄なもで」と講して行っていた。その後内宮で「かりなもで」が行われた。いままた昭和62年11月8日なむで踊りが復活し豊かな稔りに感謝し甘雨順雨を祈っている。

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「子供のための大和伝説」から
「業平道(なりひらみち)と姿見の井戸」

天理市櫟本町(いちのもとちょう)の在原(ありわら)は、西名阪道路と、新しい南北の県道の交差する西南方の地です。
今は、そこにささやかな在原神社が残っているだけですが、むかしはここに立派な在原寺があり、もとは在原行平(あるはらゆきひら)や在原業平(ゆきひらなりひら)など、在原氏の氏寺でした。
平安時代に在原業平という歌人がありました。平城天皇の孫に当たり、有名な美男子だったということです。
若い時はこの在原の住んでいて、河内(大阪府)の高安にいる女の人の所へ通ったという業平道が千年後の今もなお、きれぎれであるが細々と残っています。これはむかしの大和と河内を東西に結ぶ大切な古い道だったのです。
在原から1㌔西へ行くと、むかし、聖徳太子が橘寺から法隆寺の方へ通われたという橘街道と、この業平道が交差する所があり、そこは大和群山大字新庄の鉾立という所ですが、その交差点の東南のすみに、業平姿見の井という古い井戸があります。
河内通いの業平はそこで自分の姿をうつしたといい伝えています。
今はここに蕪村の句碑が建っています。
「虫鳴くや河内通いの小提灯」
これは江戸時代の俳人谷口蕪村が、業平道のことをよんだものです。
この業平道は法隆寺の前を通り、竜田川をわたり、十三峠を越えて河内へ入るのですが、法隆寺の前の並松の北端にも、業平姿見の井があります。ここでも業平が姿をうつしていかれたといい伝えています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
我が国の正史である日本書記には皇極天皇元年(642)の記事が最も古い。皇極天皇元年は六月から八月にかけて大きな旱魃があり朝庭では様々に方法を尽くして雨を祈った。七月二十五日「群臣相語りて曰く、村々の祝都の所数の随に、といふ さらに続いて諸諸の神を祭ふ、或は頻りに市を移し、或いは河伯に檮る。既に所功無し というさらにつづいて蘇我大臣(’蝦夷)報へて曰くと蝦夷は大乗経典 大雲経を転読 佛 菩薩の像を厳ひて礼仏読経して雨を祈らせたが思わしい効がなかったので最後に八月一日には天皇みずから「南渕の河上に幸して 跪きて四方拝み 天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷鳴り 大雨ふる。遂に雨ふること五日、天下を溥潤しつ,是にて於いて天下の百姓」倶に稲萬歳 至徳天皇と申す」とある。