「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「業平道(なりひらみち)と姿見の井戸」

天理市櫟本町(いちのもとちょう)の在原(ありわら)は、西名阪道路と、新しい南北の県道の交差する西南方の地です。
今は、そこにささやかな在原神社が残っているだけですが、むかしはここに立派な在原寺があり、もとは在原行平(あるはらゆきひら)や在原業平(ゆきひらなりひら)など、在原氏の氏寺でした。
平安時代に在原業平という歌人がありました。平城天皇の孫に当たり、有名な美男子だったということです。
若い時はこの在原の住んでいて、河内(大阪府)の高安にいる女の人の所へ通ったという業平道が千年後の今もなお、きれぎれであるが細々と残っています。これはむかしの大和と河内を東西に結ぶ大切な古い道だったのです。
在原から1㌔西へ行くと、むかし、聖徳太子が橘寺から法隆寺の方へ通われたという橘街道と、この業平道が交差する所があり、そこは大和群山大字新庄の鉾立という所ですが、その交差点の東南のすみに、業平姿見の井という古い井戸があります。
河内通いの業平はそこで自分の姿をうつしたといい伝えています。
今はここに蕪村の句碑が建っています。
「虫鳴くや河内通いの小提灯」
これは江戸時代の俳人谷口蕪村が、業平道のことをよんだものです。
この業平道は法隆寺の前を通り、竜田川をわたり、十三峠を越えて河内へ入るのですが、法隆寺の前の並松の北端にも、業平姿見の井があります。ここでも業平が姿をうつしていかれたといい伝えています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
我が国の正史である日本書記には皇極天皇元年(642)の記事が最も古い。皇極天皇元年は六月から八月にかけて大きな旱魃があり朝庭では様々に方法を尽くして雨を祈った。七月二十五日「群臣相語りて曰く、村々の祝都の所数の随に、といふ さらに続いて諸諸の神を祭ふ、或は頻りに市を移し、或いは河伯に檮る。既に所功無し というさらにつづいて蘇我大臣(’蝦夷)報へて曰くと蝦夷は大乗経典 大雲経を転読 佛 菩薩の像を厳ひて礼仏読経して雨を祈らせたが思わしい効がなかったので最後に八月一日には天皇みずから「南渕の河上に幸して 跪きて四方拝み 天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷鳴り 大雨ふる。遂に雨ふること五日、天下を溥潤しつ,是にて於いて天下の百姓」倶に稲萬歳 至徳天皇と申す」とある。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「櫟(いちい)の木と天狗」

むかし、天理市櫟本(いちのもと)の西にいちの大木がありました。この木の上に天狗が住んでいて、いっちんの実を投げて人を苦しめました。また近所のにわとりや、果物をとってあばれ、はては毎年ひとりずつ娘を人身御供(ひとみごく)に出せとまでいいました。
覚弘坊(かくこうぼう)というえらい坊さんが中国から帰ってきて、この天狗退治をもくろみました。ある日、覚弘坊が、
「もしもし天狗さん、シナからいいものをみやげに持って帰ったよ」
と木の下から呼び、衣の中から目がねを取り出して、
「これをかけると、大和国中すっかり透して見えるんだ」
と誘い出しました。そして目がねと櫟の木と交換する約束をしました。
坊さんはのこぎりで木を切りました。木は西を向いて倒れ、天狗は米谷山(まいたにやま)の方へ去ってしまいました。
櫟の根元を櫟本村、一の枝の指した方向を櫟枝村 横のところを横田村、枝を積んだところを千束村と名づけたといいます。


こういう伝説を地名伝説といいます。こんな村の名の出来たもとは、もっとも違ったものかもしれませんが、むかしの人は、そのわけがわかりませんので、それに疑問を持ち、それの解決談として、こんな話ができたものです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
飛鳥川上坐宇須多技比売命神社の場合
十四文字もの神社名は珍しい 坐処は大和川上流飛鳥川源流に近い稲渕と栢森のの中間右岸宮山の上に在って祭神は宇須多伎比売命 神功皇后 応神天皇を祀る 土地の人は「宇佐さん」と呼んでいる。「飛鳥古跡考」に「宇佐宮ノ下なる川中に少しき渕あり 皇極請雨の所にや」とある。皇極請雨の文字が気に懸る。推古天皇三十三年 高麗王 僧恵灌を貢る。仍りて僧正に任すとある。この恵灌に雨を降らせる様にと扶桑略記が書いている。我が国で雨を降らせ雨乞いの最も古い記録である。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「稗田(ひえだ)の里」

大和郡山市の稗田の里は、堀にかこまれた古い村で、日本の一番古い古事記という本の物語りを話し伝えられた、稗田の阿礼(あれ)さんのおられた里だというので、この村の氏神、売大神社(うたじんじゃ)では四十五ほど前から、毎年八月十六日に阿礼まつりが行われ、童話の先生たちがたくさん参拝されて有名です。
その阿礼さんよりまだむかしに、聖徳太子さまがこの稗田の里へお越しになりました時に、村人が稗のご飯をさし上げたということです。
聖徳太子は
「どうしてこんなものを食べているのか」
とお問いになりました。村の人は、
「この土地は水の便が悪くて、米が十分とれませんので、稗を常食としています。」
と答えました。太子は
「それはかわいそうだ。水の便をはかってやろう」
とおっしゃて、その付近を馬にのっておまわりになり、稗田の東方、今の奈良市池田町に大きな池を彫らされました。これが今の広大寺池で、今もこの池のかぎ元は稗田の里で、この池の水の最大の権利をもっています。稗田の人はこの池の水を出すたびに、聖徳太子のお徳をしたって、法隆寺へお礼まいりをすることになっています。
この稗田の村から少し西方に離れて、数軒の家があります。同じ稗田町ですが、ここを太師垣内(たいしかいと)といいます。六百年あまり前の亀山天皇の弘長年間に洪水があって佐保川があふれ、その付近一帯が砂原になりました。
その砂原の中から、めずらしい弘法大師の像を刻んだ石の仏さんが出ました。村人は興福寺にたのんで、春日山の木材をもらって太子堂をたてました。
ここむかし、大峰山への参詣道となっていましたので、おいおい人が住むようになり、いまの大師垣内というものができました。