「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞い歴史
山口神社の内より
「延喜式神名帳」には夜支布 伊古馬 巨勢 鴨 当麻 大坂 吉野 石寸(いしわれ)耳成 都祁 の各山口神社に、長谷 忍坂 飛鳥 畝火山口坐神社の十四社ある。当初は坐神社に加え皇居に近い十市郡の耳成 石寸の山口神社の都合六カ所の山は帝室の御料林であって、宮殿造営のための木材伐探運搬という危険な仕事のため、山の神に対してその入口で祭典をし祈願したものと考えられている。後に延喜式巻三、臨時祭には祈雨神祭に預り貞観元年(859)正月と九月に「風雨の為に祈る」と奉弊され雨降りの神に職務分担が変わってきた。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「源九朗狐」

大和郡山市洞泉寺に源九朗(げんくろう)稲荷社(いなりしゃ)という神社があり、源九朗狐はこの神さまの使い者だとされています。
源九朗というと、源九朗義経のことですが、義経千本桜というお芝居に出てくる狐忠信は、この稲荷の化身であったが、義経が奥羽へ下るとき、源九郎の名を贈って別れたのだといい伝えていまさう。
この源九朗狐は、郡山のお殿様のお使い者であったといいます。徳川・豊臣の合戦のとき、スパイといて活動し、徳川方に有利な情報をしらせていましたが、ついに豊臣方のために毒殺されました。のち、郡山のお殿様はこれをふびんに思い、状かの洞泉寺境内にまつって今に伝えたのだといいます。


郡山市三丁目の寺戸屋という果物店は、むかし、綿紡糸屋でありました。
ある日、ひとりの男が綿帽子を買いにきて
「代金は月末に、同市洞泉寺の源九朗稲荷社で支払います。
といって、たち去りました。
月末になって代金を取りに行きますと、神社の人は知らぬといいます。かれこれ押し問答をしていますと、お狐さんが眷属(けんぞく)を連れて、ズラリと現れ出ました。見ればそのお狐さんたちが全部、綿帽子をかむっていたということです。
童謡に「大和の大和の源九朗さん、遊びましょう」
というのがあり、子供さんたちにも親しまれ、毎年三月二十七日のお祭りの時には、子供さんたちが白装束に白狐の面をつけて、ダンジリをひいたり、水色のハッピを着て「白狐踊り」を舞ったりしてにぎやかでしたが、これは今はなくなっているようです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「洞泉寺のあかかけ地蔵」

大和郡山市洞泉寺町に洞泉寺というお寺があります。その寺の本堂に向かいあって小さな堂があり、地蔵さんをまつっています。世間では、垢かき地蔵とも、垢すり地蔵ともいっていますが、ほんとうは閼伽(あか)かけ地蔵さんです。閼伽というのは仏さんに供える水のことで、閼伽をかける地蔵さんという意味です。
この地蔵さんは、もと郡山城にあったのだが、天正のころ(400年ほど前)郡山城主のの大納言・豊臣秀長と、洞泉寺の開山・宝誓上人が同じ夜「郡山城内の大書院の西庭のくつぬぎ石をどうせんへ移すように」という夢をみました。
それで、その石をひっくり返して見ると、地蔵さんであったので、さっそく洞泉寺へお移り申したいということであります。
ところがこの地蔵堂の外の庭に大きな石風呂が置いてあります。カットに書いたような箱のような石ですが、内部には仏さんのしるしである四ヶ所に刻んであって、鎌倉時代のりっぱなもので、この地蔵さんと一しょに、この寺へ移したらしいのです。もとはこの石風呂の前方の上に、この地蔵さんを立たせ、頭の上から湯をかけるしかけをしてあって、湯 すなわち閼伽は地蔵さんの頭から身体をつたって下に落ち、湯舟である石風呂の中へ入るようにできているのです。そしてこのお地蔵さんにかけた閼伽のお湯で湯ああみをするのでした。
寛永九年に出版された「南北二京霊地集」という本によると、これは法華寺の東の阿閦寺にあった沐浴の道具であったが、後に般若寺のうしろの北山に移され、それが天正年間に郡山城を造る時に、そこへはこばれた、と書いてあります。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
水分系神社
宇太水分神社の場合 宇陀郡菟田野古市場に鎮座する。宇太水分神社は社伝によると、崇神天皇七年大和に置かれた四水分社の一つで宇陀地方の総鎮護 水の守り神として信仰を集めた。祭神はあめのみくまりの神 第一殿 はやあさつひこの神 第二殿くにのみくまりの神 第三殿 推古天皇十九年(611)に菟田野で薬猟がおこなわれたことが書記にあるがこの時推古天皇が立ち寄ったという井戸が社殿後ろにある。(第一殿うしろ)以来薬えを飲むとき効果が倍増田圃に撒くと竜を呼んで雨を降らすといわれている。社殿の前を流れている芳野川上流には芳野川上流には芳野水分水社が、下流には同名の水分神社があってより里に近くにカミを呼び寄せて水の恵ぐみを受けようとと祀っている。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
日本書記には白鳳四年旱魃飢餓の記録がある。
天平宝字七年(763)五月二十八日条に「奉幣帛子四畿内郡神 其丹生生河上神者加黒毛馬帛也」「延喜式」祈雨神祭のなかに「丹生川上社 貴布彌社黒毛馬一疋 中略 其霖雨不止祭料亦同 但馬用白毛 凡奉弊円生川上神者 大和社神主随使向社奉之」大倭神主註進状に「此神者雨神也祈雨止霖雨奉弊」とある。淳仁天皇天平宝字七年(763)五月の奉弊雨乞 光仁天皇宝亀六年(775)奉幣祈暗を始め歴代朝定の崇敬は篤く行幸啓五十余度 応仁乱事に至る迄神祇遣回数九十六回に及んだ。現代の民間信仰は水を扱つかう一家の主婦 農 林業者 水道設備 ダム 水力発電業者等の守護神としてあがめられている。拝殿にある電力会社の絵馬は有名である。