「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五條のむかし話」から
「歯いたじぞう」
阿太の滝から、急な坂道を、あえぎあえぎ登っていくと、みどりにかこまれた、ばっち池に出ます。池のほとりでひと息ついて、なおも山道を登っていくと、やっと市塚へたどりつきます。
むかし、この山里へ、ひとりの旅のこじきがまよいこんできました。どこから、どのようにしてやってきたのかわかりませんが、ここへ着いた時には、その着物はぼろぼろにやぶれ、あかだらけの手足は、すっかりやせおとろえておりました。ここまできて、とうとう力がつきたのでしょう。道ばたに、ぱったりたおれておりました。ふだんは、あまり人のこない山里のことです。たおれているこじきを見つけると大さわぎになりました。みんなで、近くの家へかつぎこみました。
里の人びとは、しんせつでした。たといこじきであっても、ここへきたのも何かの縁と思い、いっしょうけんめいかいほうしてやりました。かわりばんこにのぞきにきては、くすりをのませたり、おかゆをたべさせたりしました。
しかし、弱りきったこじきのからだには、人びとの手あついかん病も、すでに手おくれでした。なんにちかたつと、おかゆも、くすりも、のどを通らなくなりました。そのうち、(じぶんの命も、もうこれまで)と、さとったこじきは、苦しい息の下から、見守る人たちに、こんなことをいいました。
「わたしのような者に、こんなにまでしていただいて、ほんとうにお礼の申しようもありません。わたしの命も、いよいよ終りのようです。生きて、ごおん返しはできませんが、わたしが死んだらどうぞ墓をたててください。そして、これから、みなさんが、歯いたで困るようなことがあれば、わたしの墓へ豆をおそなえください。そのお礼に、歯いたをとめてあげます。
そういい終わると、まもなく死んでしまいました。
よその土地で死んでいったこのこじきを、里の人たちは、たいそうあわれに思いました。ていちょうにほおむり、ゆいごんどおり、墓をたててやることにしました。しかし、墓石に、“だれだれの墓”と、名をきざむことになって、はたと困りました。
「はて、あのこじきは、何という名前やったのかなあ。おまえら、しらんかあ。」
「知らんなあ。」
「だれか聞いてなかったあ。」
「聞いてないぞう。」
「よっわたぞ。せめて、どこの国の者ぐらい、わからんか。」
「なんでも、近江の方からきたように、いうとったぞ。」
「そうか。近江からきたというとったか。」
「うん。」
「近江の者なら、そうや、近江源蔵としたらどうや。」
「近江源蔵か。ええ名前や。そうしとこ、そうしとこ。」
ということで、名前がきまりました。
いくにちたって、”近江源蔵の墓”ときざまれた墓石ができあがりました。すずしい木かげに、お墓を作ってやりました。すっかりお墓がととのったところで、みんな集りました。それぞれに、花や、たべ物をおそなえして、
「源蔵さんのたましいも、これでやっとおちついたやろ。どうか、成仏しなはれ。」
と、おがみました。
〇この墓石ひは、「万延元年酉二月 世話人常楽屋善兵衛」とあり
「五條陣内、木村氏、常田半七、鈴木林八 山田与助 」と、きざまれています。
その後、近江源蔵の墓は、歯いたじぞうさんの名で親しまれ、歯の痛い時は、いり豆をひとつかみか、ほうらくをおそなえすると、なおしてくださると、いいつたえられています。ときどき、四季の花も供えられており、毎年三月十九日には、おまつりも、おこなわれています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五條のむかし話」から
「野原助兵衛」
むかしむかし、御山村(みやまむら)に、野原助兵衛という力持ちで、その上、武勇にすぐれた侍が、おりました。
この侍は、強いだけでなく、たいへん知恵者でありました。
この頃、戦いが、たびたびあちこちでありました。
戦いが起こると、この人は戦場で見事な働きをするので、そのことは、人の口から口へと伝わって、いつしか評判の人になっていました。
「勇気といい、武芸といい、知恵といい、こうもそろった者は、ざらにはおるましぞ。」
人々は、助兵衛のことをこう言っては、強い侍であることを認めていました。
ところで、世に「大坂の役」とよばれる大きな戦いが起こりました。
大坂の役が始まると、助兵衛は、豊臣方から、
「合戦にはじり、大いに活躍してくれるように。」と、言われました。
そこで、助兵衛は、いろいろ考えた末、大坂方に見方することに、決心しました。
御山を出発して、野原を通り、五條、宇智(うち)を通って、金剛山を越え大坂に入りました。
大阪城へやって来た助兵衛は、
「殿に、お目どうりお願いたい、野原助兵衛が、参ったとお伝えくだされ。」
大きな体を、武者ぶるいさせながら、胸をはってわれがねのような太いするどい声で、言いました。
門番は、さっそく門を開いて助兵衛を、お城の中に入りました。
豊臣方についた助兵衛は、武勇と知恵で立派な働きをしました。
その日は、5月だというのに、たいへんむし暑い日でした。力持ちの助兵衛は、百二十キロもある重い鉄棒をまるで木刀をふりまわしているように、軽々とふりまわして、敵をつぎつぎと倒しました。
助兵衛の作戦のうまさと、鉄棒をふりまわしている強さに、敵はどんどんおいつめられていきました。関東軍は、助兵衛たちの前には、手も足も出ないままに、いったんひき下がることにしました。
敵を追っかけた助兵衛は、勢いにのってしまって、ついうっかり味方の軍隊から離れて、敵の陣地にはまりこんでしまいまいました。
あまりの暑さと、戦いの疲れで、どうにもならず一休みすることにしました。
「ああ、さすがのわしもつかれたわい。それにこの暑さには、まいってしまいそうだ。このあたりで、ひとつ、体を休めよう。」
と、ひとり言を言いながら、馬からおりて、木かげで扇子を使って涼んでいました。
あまりにも、疲れていたのと、暑さとで、助兵衛は後ろのことになぞ、警戒せずにほっとした気分で気を許し涼んでいました。ところが、この気の許みが、命取りになろうとは、思ってもみないことでした。足許に、ころがっている戦死した侍たちのしかばねの中に一人の敵兵が、かくれていたのです。
「そこに、涼んでいるのは、うわさに高い助兵衛にちがいない。相手は、気づいてはいまいぞ。今のうちだ。」
一人の敵兵は、ひきょうにも、鉄砲をかまえるや、後ろから、ひきがねを引きました。玉は、背中に命中しました。突然の痛みに、助兵衛は、
「しまった。やられた。」と、
ふり向くや、
「おのれ、何やつぞ。」
と、さけびながらすろどい目で相手をにらみつけました。
さすがの助兵衛も、後ろから不意を打たれては、身をかわす間もありません。
「む・・・・・・・。不覚を取った。無念だ・・・・・。」
と、言い残して、うつぶせに倒れてしまいました。
敵兵は、助兵衛はの首をはねるや、強かった武芸者を討ち果たしたしるしとして、それを陣中へ持ち帰りました。
その後、助兵衛の息子は、父が死んだことを知り、亡き父のかたき討ちをして、父の首をうばいかえした。そして、御山へ持ちかえって、お墓をつくり、厚くほうむって、碑を建てました。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五條のむかし話」から
「にえもつの里」
これは、古事記や、日本書記という、日本の国の、もっとも古い本に書かれている、遠いむかしの、いいつたえであります。
大和の国(いまの奈良県)に、神武天皇という、たいそう、ちえとゆきのある天皇がおられました。この天皇が、大和の国を中心とした、日本の国づくりを思いつかれ、けらいたちをひきつれ、あちこちの、わる者せいでばつに出ておられた時のことです。けわしい熊野の山の中で道にまよわれ、進むに進めず、ひくにひけず、困りはてておられました。しかし、どこからともなくとんできた、八咫烏のあんないで、うまくその場をきりぬけることができ、一行はやがて、阿太の里に入ってこられました。
その頃の阿太の里には、もうすでに、安太人(あだひと)が住んでおり、吉野川で魚をとったり、近くの山で狩りをしたりして、のぞかに暮しておりました。
神武天皇たちが、吉野川にそって、この阿太の里を通りかかった時のことでした。美しい流れの中に、筌(やな)をしかけ、一心に魚をとっている一人の男がおりました。あたりは、大小さまざまの岩がむき出しになっており、その間を、玉のような水しぶきがとび散っております。ザア、ザアという川の音は、たえまなく鳴りひびいておりました。その音のためでしょうか。男は、天皇の一行が近づいてきたのも気がつかないで、いっしょうけんめい魚をとっておりました。
しばらくそのようすを見ておられた天皇は、(あれは、いったい何者だろう)とふしぎに思われ、けらいにいいつけて、男をそばにおよびになりました。そして
「わたしは、天津神の御子であるが、お前はどういう者か。名は、何というのか。」
と、おききになりました。すると、その男は、
「わたしは、国津神・贄物(にえもつ)の子でございます。いつも、この川で、魚を「とるのを仕事にしております。」
と、申しあげました。それから、筌でとれた魚をさしあげたところ、天皇は、たいそうおよろこびになったということです。


〇古事記・日本書記には、国づくりをめざす天皇を、贅物の子は、たすけ、たべものをさしあげたとも書かれています。
吉野川が、阿太の地に流れてくるあたりに、皇座位というところがあり、川の中に、大小の岩が出ています。ここが、阿陀(あだ)の鵜養(うかい)の祖先である贅物の子が、天皇に魚をさしあげたところといわれ、皇座位という地名が残ったのだともいわれています。
また、このことから、ちかごろ、この阿太の里を、「にえもつの里」とよびばおそうという声もおこっています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五條のむかし話」から
「つえざくら」
 むかしむかし、奈良に都があったころ(今から千二百年あまりまえ)薬師寺というお寺で、行基ぼさつとよばれるおぼうさんが、いっ心に修行をつづけていました。
行基ぼさつは、弁天様をあつく信仰し、人びとから生き仏様とあがめられていました。
あるとき、日本じゅうに悪い病気がはやったり、田畑のの作物のみのりが悪かったりして、人びとはとっても苦しんでいました。
行基は、たいそう心をいため、病気で苦しんでいる人や食べものがなくて困っている人たちを助けるために、ほうぼうをたずね歩きました。そして、たくさんのお寺を建てたり、ため池をつくって作物のみのりをよくしたり、人びとのしあわせを願っていっ心にはたらきました。
このとき、行基は五條にもこられて野原町にりっぱなお寺を建て弁天様をおまつりしました。
行基がおなくなりになってまもなく、空海というおぼうさんが、仏様のおしえをひろめるために、国ぐにをめぐっていたのですが、その途中、吉野山に立ちよられ、これから長旅のために桜の木でつえをおつくりになりました。
空海は、後に弘法大師とよばれるりっぱなおぼうさんになられました。
大師は、この吉野山の近くに行基ぼさつのお建てになったお寺があることを思い出され、桜の木のつえをついて五條の地をおたずねになりました。
そのころの五條は、まだ、けわしい山が多く、やっとの思いでたどりつかれた大師はホッとしてお寺の門をくぐり、手にもっていたつえを地面につきさしておやすみになりました。
大師は、お寺の本殿の前でごまをたきその灰で小さな弁天サア間をおつくりになり、手あつくおまつりしました。
旅のつかれをいやして元気になられた大師は、つえのことなどすかっりおわすれになって、お寺を出ていかれました。
その後、このつえに根がはえてみごとな花をさかせたということです。
今では、その場所に大きなおじぞうさまをおまつりしてむかしのつたえをんぽこしています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五條のむかし話」から
「瀬の同薬師」②
 ある日のこと、一人のおばさんがとぼとぼと、杖をつきながら少しあるいては休み、またあるいては休みながら、この大沢寺(だいたくじ)へとむかって歩いてきました。しょぼ、しょぼと、まぶたをうつ眼には涙がでています。眼から流れ出る涙には白いうみのようなものもまざっています。腰をのばしてじっと空をみあげるほそい眼は、まぶしそうに、すぐとじてしまいました。小布で眼をふいては歩き、またしばらくあるくと眼が痛むのかじっとおさえています。あとずさりするような急な坂道を「はー、はー、」いいながら登りきったところで白い壁の大沢寺につきました。おばあさんはころげるように薬師如来さまの前へすわりこみました。小布でじっと眼をおさえながら
「薬師さま、お願いにまいりました。」
「眼が、いたむのです。」
「眼が、かすんでみえないのです。」
「涙やうみが出てくるのです。」
「薬師さま、どうかなおしてください。なおしてください。」
おばあさんは、薬師さまにすがりつかんばかりにして祈りはじめました。夜になるのもわすれ、じっと動かす一心にお経をとなえだしました。あくる日も、あくる日も薬師如来さまの前から動こうともしませんでした。いく日たったでしょうか。おがみ続けている、おばあさんの耳に、
「二つの琵琶池の右の池で、眼をあらってごらん。」とかすかな声が聞こえてきました。
「ほとけさまの声だ。」
はっとした。
おばあさんは思わず薬師さまに手をあわせました。
そして急いで琵琶池に近より両手で水をすくい眼をぬらしました。すきとおった池の水は冷たくおばあさんの眼にしみてきました。水を手ですくっては何度も何度も眼を洗うと、眼の前がだんだん明るくなってきました。青葉がくっきりとみえます。
「みえる!」「みえる!」
「はっきりみえる!」
「なんと、美しいお庭だろう。」
「なんと、きれいな水だ。!」
パチ、パチ、と瞳を動かしながらくいいるようにあたりをみまわしました。
涙もとまり、うみも出てこない瞳になったおばあさんは、池の畔の柳の木にもたれまがら両手をあわせて
「薬師如来さま、ありがとうございました。」
「ありがとう ございました。」
と深く深く頭をさげました。
この話しが人から人へ、村から村へと、伝わりつぎつぎと眼を洗いにくる人が続きました。男は左の池で、女は右の池で眼を洗うとどんな眼病でもなおるというので琵琶池はいつしか「眼洗い池」とよばれるようになりました。
また不思議なことに、どんな日照りが続いてもこの池の水はなくなったことがないので誰いうとなしに「底なしの池。」ともいわれています。人々は眼病をなおしてもらった嬉しさに、この池に亀や鯛をはなしました。今では亀や鯛は仏様のおつかいとして、琵琶池でなく別の大きな池で大切にかわれています。
ちなみに、この池の水を分析したら炭酸水だとのことで、しもやけの妙薬ともいわれています。