「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「吉野の民話」から
「役行者」
昔、役行者は葛城山のふもとに生まれました。関西のあらゆる山に登って修行をしました。そして吉野へやってきて、南の大峰山に行って修行を始めました。けわしい山や岩場を登り、千日間の修行をしました。
千日間の最後の満願の日、山」は雨あられが降り、かみなりが鳴るたいへんな天気でした。そんな中で役行者の目の前に蔵王権現という仏さまが現れました。役行者は蔵王権現のお姿を桜の木に刻み、おまつりすることにしました。こうして役行者は大峰山を開き、人びとの修行の場としました。ことこういうわけで、大峰山の頂上にある大峰山や吉野町の蔵王堂には竿権現がまつられています。
また、役行者は日本中のけわしい山で修行を積んで、おおくの人びとに教えを説きました。しかし、それが時の天皇の怒りにふれました。天皇は、
「役行者を伊豆の大島に島流しにせよ。」
と命令を下しました。
それでも役行者は、修行で身につけた神通力で身につけた神通力で島から飛んであちらこちらの山でさらに修行を積んだということです。
役行者の目が大峰山に登ったときのことです。役行者のお母さんもあとについて行こうとしました。ところが、お母さんが登って行ったとき途中で火の雨が降りだしました。お母さんは鍋をかつおで登って行こうとしました。けれども、火の雨はますますはげしくなり、とうとうお母さんは山に登ることをあきらめざるをえませんでした。
吉野から大峰山につづく道の途中、洞辻の手前に「ナベカツギ」というところがあります。火の雨にあった役行者のお母さんが鍋をかついだところと言われています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「吉野の民話」から
「犬の飼わない村」
のちの天武天皇が、まだ大海人皇子のときの話です。大海人皇子は、天智天皇の息子である大友皇子と戦争をされました。
戦いのさ中、敵に追われた大海人皇子は、吉野川と高見川とが合流する窪垣内というところまで逃げてこられました。
そこには舟の渡し場があり、翁が魚をとっていました。翁は、舟をひっくり返して、その下に大海人皇子をかくしました。
そこへ、敵が放った、ミルメとカグハナという名前の二匹の犬がやってきて、舟のまわりを臭いをかぎながら、くるくる回りました。翁は、そばにあった赤い石で、二匹を殺していました。
すぐに敵があらわれて、
「なぜ犬を殺したのだ。」
と、怒ってどなりました。すると翁は、
「このくそ犬は、お祭りのお供え物を欲しそうにして、ねぶったからや。」
と答えました。お供え物は、神様にさしあげるとても大事なもので、それに手を出したのであれば、殺されても仕方ありません。敵はしかたなく去っていき、大海人皇子の命は助かりました。二匹の犬は、窪垣内の坂(くぼがいとのさか)の登ったところにほうむられました。
そこには今、窪垣内の学校が建っています。学校の庭のすみには犬塚の記念碑があります。学校の坂の下には、大海人皇子を助けた人をまつった神社があって「御霊さん」と呼ばれています。この神社には、狛犬がありません。また、付近の人たちはけっして犬を飼いません。自分たちが氏神としてまつっている先祖が、犬を殺して大海人皇子をお救いしたからです。
また、赤い石もぜったいに使わないということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

薬師寺の塀の古さが出てます。塀を眺めていても 寂れていた時代があったからでしょう

「7吉野の民話」から
「高見山の入鹿の首塚」
吉野は、山伝いに北は桜井市の多武峰、南は東吉野村の高見山に連なっています。
千四百年ほど前のこと。蘇我入鹿が国の政治を思うがままに動かしていました。見かねた仲大兄大皇子(のちの天智天皇)は何とかしたいものだと考えていました。多武峰の藤原鎌足も、中大兄皇子と同じ考えでした。藤原鎌足は、蘇我入鹿に気づかれないように中大兄皇子に相談したいと考えました。
ある日、多武峰で蹴鞠が行なわれることになり、藤原鎌足は、蘇我入鹿にあやしまれることなく中大兄皇子と会うことができました。ふたりは話し合い、蘇我入鹿をこらしめようということになりました。
そしてついに中大兄皇子と藤原鎌足は、蘇我入鹿をうちとることができました。蘇我入鹿は首をはねられました。首をはねられた蘇我入鹿は、首だけになりながらも、中大兄皇子と藤原鎌足を追いかけました。
入鹿の首が、逃げる中大兄皇子と藤原鎌足を追いかけるという話は、奈良県内のあちらこちらに伝えられています。吉野のお話では、蘇我入鹿の首ははるか高見山まで飛んでいったことになっています。
今も高見山の頂上にはお社があります。お社は飛んできた入鹿の首をまつっていると言われています。今ではこの高見山のお社は頭の神さまで、願かけをすると頭痛を治してくれると言い伝えられています。昔から吉野あたりの人たちは頭が痛いときには、高見山のお社へ願かけに行きました。そうすると不思議と頭痛が治るということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

薬師寺 花会式法要 この後鬼追式

「吉野の民話」から
「キツツキを寺っ子と呼ぶわけ」
吉野の山ではキツツキのことを「寺っ子」」と呼んでいます。「寺っ子」というのは、お寺の子という意味です。どうして、そう呼ばれるようになったのか、こんな話が伝えられています。
今から千五百年ほど前のこと。外国から仏教の教えが伝わってきました。仏さまを信じるかどうかをめぐって、物部氏と蘇我氏が戦争をしました。戦いは、仏さまを尊敬する蘇我氏が勝ち、物部氏は滅ぼされてしまいました。
仏さまを厚く信じていた聖徳太子は、戦争のとき蘇我氏の味方になって戦いました。のちに聖徳太子は、仏教の教えを広めるために、斑鳩の法隆寺などのお寺を建てました。
物部氏との戦争がおわったあと、聖徳太子は大阪に四天王寺を建てました。大阪は今でこそ大都会ですが、そのころは寺だけがぽつんと建つ、さびしいところでした。それで寺には、キツツキがいっぱいやって来ました。キツツキはお寺の柱をっついてたくさんの穴をあけました。
人びとにはキツツキが柱をっつく音が、
「物部滅ぼした、物部滅ぼした、物部氏の魂が来ている。殺したね、殺したね、寺つつき、寺つつき。」
というように聞こえました。それから、キツツキは「寺っ子」と呼ばれるようになりました。
蘇我氏は、のちに聖徳太子の子孫を滅ぼし、ますます勢力をのばします。しかし、ついに蘇我氏も滅ぼされてしまいます。蘇我氏が滅ぼされた話は、次の「高見の入鹿(いるか)の首塚」として吉野でも語りつがれています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

薬師寺東側の鏡池 
亀もいました。
この角度では東塔のみですが 美しい姿が見えます。
明日は 花会式のクライマックス 鬼追式 です。鬼が松明を持って お堂の周りを走り回る姿が 雄壮です。

「吉野の民話」から
「井光(いぎか)の井戸」
吉野町飯貝(いいがい)の水分神社(みくまりじんじゃ)には「井光の井戸」と呼ばれているがあります。昔、神武天皇が九州から大和(今の奈良県)に来られたときに、吉野のあたりを通られました。杉の木の根っこに井戸があって、井戸の中からものすごい光が射してきました。井戸の中から尻尾のあるちいさな人が出てきて神武天皇の前にひれふしました。神武天皇が驚いて、
「おまえは何者なのだ。」
とたずねると尻尾のあるちいさな人は、
「私はこの吉野に住んでいるものです。あなたが大和へ来られたと聞いて、道案内をしてさし上げようと思っていたのです。あなたをお待ちしていました。」
とこたえました。
神武天皇は喜んで道案内をしてもらうことになりました。道案内のおかげで神武天皇は山を越えて、とうとう橿原までたどり着くことができたということです。
それ以来、尻尾のあるちいさな人が出てきた井戸を、「井戸が光る」ということで、「井光の井戸」と言うようになりました。
またこんな話も伝わっています。井戸の中からあらわれたのは尻尾のある人ではなく、「井光」という名前のお姫様であったというのです。そして、このお姫様が神武天皇の道案内をして神武天皇をお助けしたということです。それからこの水分神社のあるあたりをお姫様の名前である「井光」がなまって、「飯貝」と言うようになったということです。
また、この地で神武天皇が、貝をおかずにしてごはんをめしあがったので「飯貝」と呼ばれるようになったとも伝えられています。