「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

川上村昔ばなし」から
「ほうでんさんとキツネ」
安政生まれのおじいさんに昔に聞いた話ですわ。
伯母谷から大迫に行く旧道の途中にな、今でも屋敷のある「ひうら谷」いう所がありまんねんけどな、キツネやタヌキが毎晩出て、ドンドン戸を叩いてどうもしゃあないちゅうて困っとたらしですわ。おまけにそこでようキツネやタヌキにばかされたらしいわ。
まぁ古い話でな、ほうでん(橘将監)さんがな、毎晩大迫の方へ夜遊びに行っとったそうやわ。ほて、ほうでんさんが夜の十二時頃に伯母谷向いて帰ってきたらしな、その「ひうら谷」のそばで女の人がじーっと座っとんのを見つけたそうやわ。「あんた、どこへ行くん?」と聞いたら「わし柏木の方へ行きますんや」と、「こんな夜中にどうしたん?」と聞いたくらいなら「急な用事で行きますんや」言うたそうや。顔を見たら、夜に見てもえらいはっきりした顔でねえ、べっぴんさんやったと。「ははあん、これはここで悪いタヌキやキツネがおるさかい、こいつに違いない」とほうでんさんは思ってな、「どうしたんや?」と聞いたら「しゃく(急な腹痛)でよう動きませんねん」と、「そんなやったら、うちで養生したらええわ」言うて、自分の帯ほどいて女を背中へぎっちりとくくりつけて連れて帰ってんと。ほんで家へ着いても降ろさへんでな、「おまえはひうら谷におる悪いキツネやろう、このまま生け捕りにしてしまう」言うたらな「どうか堪忍してくれ、これかは伯母谷の在所でヘソの緒を切った者には、タヌキやキツネは絶対に悪さはせん。はやり病があっても必ずうつらんようにするさかいに」と約束したらしい。
わしらの小さい時分にな、はしかが流行った時、わしの母親は米と線香と持ってお参りしてましたわ。口伝えやったんやろうな。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記「

「川上村昔ばなし」から
「伯母谷のはなし」
天誅の岩屋
天誅組の人でな九州の浪人やったそうやけどな、北山へみて来たらしいわ。ほんで伯母谷へみて下りてきたけど、鉄砲傷でここで働けんようになってしもうたそうや。ほんで伯母谷のもんが皆寄って岩屋へ隠して食べるもんを持って行ったりしてな、二十日程おって養生したそうやなぁ。
これは本当の話やったんやな、元気になって九州へ帰る時にな、伯母谷の人へ「いろいろなお世話になりました」と言うて、短刀を置いてったらしいですわ。ほんで九州からお礼の手紙も来てましたな。それからこのかくまったとこを「天誅の岩屋」言うようになったそうですわ。
ほんでな、そんときにわしの生まれた家に吉村寅太郎さんが泊まったそうでな、ほんでわんわん泣いっとた安政生まれのわしのおじいさんにな、「坊、もうじきええ世が来るさかい、泣かんでもええ」言うたそうで。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「川上村昔ばなし」から
「二股の柵と獄門平」
大台ヶ原山のふもと、筏場より東方四キロ半、吉野川の上流の本沢川と北股川の合流するところを二股といい、後南朝の王、自天王が三ノ公におられたころ、柵のあったところである。皇居を守る武士は、ここに関門を設けて道行く人を誰何した。ある日、武士が通行の勘問したところ、かねて土民に教えてある合言葉を知らず、答えのできない者が六人あった。武士はこれを捕らえてごうもんすると、かれらは幕府の命を受けて神霊を盗みに潜入したことを白状した。そpこで、これを三ノ公川の川原で斬首し、その首を二股の柵にさらした。
その斬首した川原を、村人は今も獄門平とよんでいる。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

薬師寺南門から徒歩5分ぐらいの所に ライブラリーカフェとして 「本のある喫茶店 うのん」を営んでいます。歴史 民族学などの本多く所蔵しております。
その 外へなかなか出られない方に当方の本を紹介しています。
今日からは 「川上村昔ばなし」を紹介します。


「入之波(しおのは)の話」から
「河童のガタロウ」
昔、入之波の「ナガトの川原」にはな、悪さばっかりしよる河童のガタロウがおってなぁ、みんなどないかしたいと、いっつもおもうとったそうやわ。
そんなある日のことやった。村一番の怪力のハイチロウがな、ガタロウをいっちょ相撲でこらしめたろっちゅうことを思いついたそうや。
いざ相撲を取る時、勝負の前にハイチロウはガタロウにこんなことを言いよったそうや。
「やい!がタロウ。わしは怪力のハイチロウの弟子や。わしと相撲で勝負せい!おまえをいわとばすくらい弟子のわしで十分じゃ。いざ!」そない言うて、がタロウをひょいと投げ飛ばしてしもたそうや。
相撲に負けてしもたガタロウは、ハイチロウにだまされとんのもしらんとな、弟子でこんくらい強いんやから、師匠のハイチロウはどんくらいのもんかと、びっくらがえってしもてな、「もう悪さは一切しません。頼むよってに師匠のハイチロウは連れてこんとってくれ。そないしてくれたら、毎日魚を捕ってくるよってに。」そないいうてがタロウはすっかりまいってしもうたそうや。
それ以来な、人之波の家では軒先にビクをふらくっといたらな、知らん間にガタロウがやってきて捕った魚を入れてくれるようになったそうや。
これでめでたしめでたしになるとやねんけど、ずっと時が経ってなぁ、村人も代々変わっていくうちに、今度は毎日魚をもらっても、食べきれんと腐らせてしまうっちゅう別の悩みが出てきたそうや。ほんでどないしたら河童が魚を入れんようになるかっちゅうことでな、ビクを引っ掛けるのを、河童の嫌いな鹿の角に変えたそうや。そしたら、ぴたっと来んようになったそうや。この頃からな、だんだんと河童の姿も見かけんようになって、今ではすっかり見らんわなぁ。
そうそう、河童がキュウリを大好物なんはな、言い伝えによると、キュウリの汁と酢を混ぜたやつに鹿の角を入れると溶けるっちゅうことやわ。それとな、捻挫に効く「スネリ」(酢・マイモ・メリケン粉を混ぜたもの)ゆうのがあるんやけど、ハイチロウの家で作ったやつを貼ってもらうとなぁ、特に良く効いたそうや。今もハイチロウの家系の家があるねんけど、そこでわしも貼ってもらったことあってなぁ、どこのスネリよりも良く効いたもんやわ。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五條のむかし話」から
「竜のお寺」
金剛山の南のふもと北山村にずっと昔、大きな龍がすんでいたということや、身の丈は五ひろぐらい(約十メートル)で、胴体が長く二つするどい角をもち、一ひろもある頭をもちあげると、大きなきばはぐっとそりあがり、眼はまっ赤にランランと光り歯をがたがたさせながら相手をにらみつける。一度龍をみたものは、そのすさまじさにおそれおののいたそうや。
その大龍が時々夜中に田畑の中をのそりのそりいまわり、村を荒らしまわった。
あくる朝、村人たちは畑にやってきて、びっくりぎょうてん。
「西瓜がわれとる。」 「なすびが根からほりおこされる。」
「やっと、みのった稲が踏みにじられた。」
「おまえさんとこもか。」 「おれとこもや。」
「なんぎやなあー。」  
つぶれた胡瓜をひろい集めては溜め息をついていた。畑の入口に竹をたてて大龍が畑にはいらないようにする村人もいた。
でも大龍はおかまいなしに、かきをのりこえ畑を荒らしにきや。
柿の木にも、蜜柑の木にも、のぼって枝をポキンと折った。村人たちは集まっては「こまった。」「こまった。」となげいていた。
ちょうどそのころ、北山村にひとりの力の強い若者がすんでいた。
みんなはこの若者に龍を退治してもらおうと思った。
「このままでは、北山村がふみつぶされてしまう。」
「なんとか 助けて。」
「たのむ。」「たのむよ。」
若者は、じっとしておれず村を救おうと考えた。なんとかして龍を退治しようと祈りはじめた。一心にお経をとなえ出した。何時間も何時間も祈り続けた。
すると、一天にわかにかき曇ってあらわれ出た大龍は角をまっすぐにつったて、ひげをぴんとたて尾をパシリパシリうちたつぁきながら、大きなきばをガチガチならしまっかな舌をペロペロ出して、男に飛びつこうとした。男はすばやく身をかわして手に持っていた、珠数を振り上げてハッシと投げつけた。
龍は上になり下になってのたうちまわった。なおも若者に飛びかかろうとしたが、若者はおそれず、二度、三度と珠数を投げつけた。あえぐ龍は口から白い息をはき若者にはげしくおそいかかる。うちつけられた若者は額から、真赤な血を流しながらおそれず龍にたちむかった。力つきた龍は天へ逃げ上ろうとしたが身が三つに切れてパタリと地上におちた。
どうなることかと不安げにみていた村人は手をたたいてよろこんだ。でもさわぎがおさまると、
「龍のたたりがあるかもしれん。」
「龍の霊は、きっと残っている。」
「龍はしかえしにくるのとちがうやろか。」と心配になってきた。
そこで、龍のたたりをおそれてその霊をとむらうことにした。
龍の身が三つに切れて地上におちたのだから龍の頭の落ちたところに龍頭寺、胴の落ちたところに龍胴寺、尾の落ちたところに龍尾寺と三つの寺を建てて、龍を厚くとむらったという。今は北山町の東谷に龍尾寺のみが残って草谷寺と名付けられている。この草谷寺には三つの寺の仏像が国宝として安置されている。
草谷寺の後方の小高い山上に、石をまるくならべて塚をつくり、供養した龍塚が今も残っている。龍の頭と尾の塚は残っているが、胴は、はっきりとわからない。胴が段という地名があるのは多分龍の胴のうめたところだろう。