「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五條のむかし話」から
「野原助兵衛」
むかしむかし、御山村(みやまむら)に、野原助兵衛という力持ちで、その上、武勇にすぐれた侍が、おりました。
この侍は、強いだけでなく、たいへん知恵者でありました。
この頃、戦いが、たびたびあちこちでありました。
戦いが起こると、この人は戦場で見事な働きをするので、そのことは、人の口から口へと伝わって、いつしか評判の人になっていました。
「勇気といい、武芸といい、知恵といい、こうもそろった者は、ざらにはおるましぞ。」
人々は、助兵衛のことをこう言っては、強い侍であることを認めていました。
ところで、世に「大坂の役」とよばれる大きな戦いが起こりました。
大坂の役が始まると、助兵衛は、豊臣方から、
「合戦にはじり、大いに活躍してくれるように。」と、言われました。
そこで、助兵衛は、いろいろ考えた末、大坂方に見方することに、決心しました。
御山を出発して、野原を通り、五條、宇智(うち)を通って、金剛山を越え大坂に入りました。
大阪城へやって来た助兵衛は、
「殿に、お目どうりお願いたい、野原助兵衛が、参ったとお伝えくだされ。」
大きな体を、武者ぶるいさせながら、胸をはってわれがねのような太いするどい声で、言いました。
門番は、さっそく門を開いて助兵衛を、お城の中に入りました。
豊臣方についた助兵衛は、武勇と知恵で立派な働きをしました。
その日は、5月だというのに、たいへんむし暑い日でした。力持ちの助兵衛は、百二十キロもある重い鉄棒をまるで木刀をふりまわしているように、軽々とふりまわして、敵をつぎつぎと倒しました。
助兵衛の作戦のうまさと、鉄棒をふりまわしている強さに、敵はどんどんおいつめられていきました。関東軍は、助兵衛たちの前には、手も足も出ないままに、いったんひき下がることにしました。
敵を追っかけた助兵衛は、勢いにのってしまって、ついうっかり味方の軍隊から離れて、敵の陣地にはまりこんでしまいまいました。
あまりの暑さと、戦いの疲れで、どうにもならず一休みすることにしました。
「ああ、さすがのわしもつかれたわい。それにこの暑さには、まいってしまいそうだ。このあたりで、ひとつ、体を休めよう。」
と、ひとり言を言いながら、馬からおりて、木かげで扇子を使って涼んでいました。
あまりにも、疲れていたのと、暑さとで、助兵衛は後ろのことになぞ、警戒せずにほっとした気分で気を許し涼んでいました。ところが、この気の許みが、命取りになろうとは、思ってもみないことでした。足許に、ころがっている戦死した侍たちのしかばねの中に一人の敵兵が、かくれていたのです。
「そこに、涼んでいるのは、うわさに高い助兵衛にちがいない。相手は、気づいてはいまいぞ。今のうちだ。」
一人の敵兵は、ひきょうにも、鉄砲をかまえるや、後ろから、ひきがねを引きました。玉は、背中に命中しました。突然の痛みに、助兵衛は、
「しまった。やられた。」と、
ふり向くや、
「おのれ、何やつぞ。」
と、さけびながらすろどい目で相手をにらみつけました。
さすがの助兵衛も、後ろから不意を打たれては、身をかわす間もありません。
「む・・・・・・・。不覚を取った。無念だ・・・・・。」
と、言い残して、うつぶせに倒れてしまいました。
敵兵は、助兵衛はの首をはねるや、強かった武芸者を討ち果たしたしるしとして、それを陣中へ持ち帰りました。
その後、助兵衛の息子は、父が死んだことを知り、亡き父のかたき討ちをして、父の首をうばいかえした。そして、御山へ持ちかえって、お墓をつくり、厚くほうむって、碑を建てました。

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