「うのん」の気象歳時記ブログ

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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「五条のむかし話」から
「地福寺の天つぼ」から その二  ③
さて、ぶじ役目を果たした慶海法印らは、帰ることになりました。その途中の出来事であります。
船で鳴門の辺りにさしおかかった時、今までおだやかだった天候が急に変わりだしました。青空は、いつのまにか消え、まっ黒な雲が、船をつつみこんでしまうかのように、ぶ気味に広がってきました。強い風と、荒れるくるう高波で、船は少しも前に進めなくなってしまいました。それどころか、波の谷間にすっぽり入りこんでしまうと、すいこまれそうになりました。かじをとられてしまった船は、まるで木の葉のように、ただ浮いているしかありませんでした。
「一体どうしたことだ。」
「何か、神のいかりにでもふれたのだろうか。」
「船が、転覆してしまうぞ。」
船に乗っている人たちは、ただ、おろおろするばかりでした。心細く、恐ろしくなってきました。
慶海法印は、
「そうだ。この天壺は、もともと、龍宮より役の行者さまに授かったものだ。だから、今、
龍宮へ取り返さんとする計らいかもしれない。」
そう言うや、海に向かって、
「この壺は、龍宮善女様より、役の行者に授かり申したもので、ございます。だから、龍宮へお返しするわけにはまいりません。その代わりといたしまして、ここにございます仏舎利を龍宮へお供えいたしましょう。」
と、言って、待ち合わせの紫色の舎利を、海の中へ投げ込みました。
すると、なんとしたことか、不思議。今まであんなに荒れくるっていた海が、まるでうそのように、ぴったりともとの静けさに、もどりました。
そして、ぶじ、堺の港につきました。

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「地福寺の天つぼ」から
その二 ②
なにしろ、たいへん重い、大きな壺であります。また、割ってはならない、たいせつな壺であります。
一日も早く、この壺を阿波の国まで、運ばなくてはなりません。石ころの多い山道を、重い壺をかついで、歩くことは、なみたいていではありません。長い長い道のりを、つかれても、休まないで、早足で歩き、とうとう堺の港までたどりつきました。
阿波の国までは、あともうひといきです。一行は、ほっとしました。
「やれやれ、ここまで来れば、阿波についたも同じこと。あと、船にさえ乗れば、おのずと着いてくれましょう。」
「わたくしどもの役目も終わりました。ここから、ひき返すことにいたします。この壺のご利やくをいっこくも早くと、お祈りしております。」
ここで、壺を運んだ人、四人は、ひき返すことになりました。
海は、おだやかで、船はぶじに阿波の港につきました。
壺は、徳島の神護寺に運ばれました。
庭のまん中に、壇を作り、白布をしいて、その上に、壺をおさめました。
慶海法印は、
「では、七日間のお祈りをしてみましょう。」
と言って、二人の僧と共に、雨乞いのお祈りを始めました。
お祈りを始めて、五日めの七つ頃(今の午後四時頃)神護寺の境内は、急に暗くなりました。雨雲が、一面に寺をつつみこむようにおおいかぶさったかと思うと、たちまち、西南の方から、強い風が、うなるように、吹きはじめました。と、みるまに、大つぶの雨が、かわきっきた白い地面を、たたきつけるように降ってきました。
雨は、六日目の八つ頃(今の午後二時頃)まで降り、あちらこちらの川の水は、あふれ出すほどの大水になりました。
阿波の国の人々は、たいそう喜びました。そのうえ、天壺の神通力におどろき、天壺をうやまずには、いられなくなりました。
「不思議なことだ!あんなにひどかったひでりも、雨を見ることgはできた。」
「あの壺が、雨を降らしてくださったのだ。あの壺は、あいそうなえらい力をもっていなさる。」
天壺のうわさは、その日のうちに、人々の間に、ひじょうな勢いで広がっていきました。
阿波守は、たいへん、壺の威力に敬服され、まさかの時、この壺のご利やくを受けられるよう、せめて、壺のお姿を絵に描き写し阿波の国に、残しておきたいとおもわれました。
「わたしの国は、よく干ばつにみまわれ、困ることが、たびたびある。このようなりっぱな壺のお姿があると、たいへんありがたい。絵にかき写して、軸にしておこう。」
阿波守は、さっそく、その壺を絵に写し、その後、数本のかけ軸をつくって、阿波の国々へくばりました。

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「五條のむかし話」から
「地福寺の天つぼ」 その二 ①
それから、『雨を降らした天壺』の話は、国じゅうにひろまりました。
阿波の国(今の四国地方)では、その話が、ずっと後まで、言い伝えられました。
寛永三年のことであります。阿波の国をはじめ、西日本に、たいそうひでりが、幾日も幾日も続きました。四月より雨が、一てきも降らず、人々は大変、困りました。
阿波の国の松平阿波守(まつだいらあわのかみ)は、ふと、大和の国の「天壺」の話をおもいだされ、すぐさま、使者をつかわしました。
「私ども三名は、阿波の国の松平阿波守より、つかわされた者でございます。じつは、お願いがあって、やってまいりました。と、申しますのは、四月より大かんばつに見まわれ、特に私ともの国は土地柄、そのかんばつもひどく、ひじょうに困り果てて
おります。一刻も早く、雨がほしいのですが、今だに、その気配すらありません。
あなた様のお寺に、雨を降らせることができる、神通力をもった雨乞いの天壺があると、お聞きいたしまいました。それで、そのご立派な、ご利やくのある天壺を、お借りにまいりました。阿波の国をどうか、お助けください。
その上、阿波の国へ、おこしいただき、お祈りをしていただきたいのでございます。」
使者のひっしの願いに、当院の慶海法印(けいかいほういん)は、こころよく、ひき受けました。
いっこくも早く、ということで、さっそく出発の準備をしました。慶海法印をはじめ、二人の僧と、三人の付人と、天壺をかつぐ、人四人と、使者三人とで、合わせて十三人の一行が、あわただしく山を「おりました。
なにしろ、たいへん重い、大きな壺であります。また、割ってはならない、大切な大切な壺であります。

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「五條のむかし話」 
「地福寺の天つぼ」 ④
小角が、祈り始めて、三日め、あたりが、ほんおり明るく白みはじめたころ、滝つぼの中から、髪もまゆも、まっ白な老人が、大きな壺を両手にかかえて、現れました。
「わたしは、龍宮から来た使いの者である。あなたが、天子の命によって、雨乞いをしているというから、やって来たのだ。万民(ばんみん)を救うためにいっしんになっているあなたは、たいへん立派である。よって、この壺をあたなにさしあげることにしよう。この壺を、そばに置いて、祈りを続けるがよい。」そう言ったかと思うと、ふっと姿が見えなくなりました。
役の小角は、さっそく、言われた通りその壺を滝つぼの岩の上において、いっしんにお祈りをつづけました。
すると、不思議。
とつぜん、あたりが、にわかにかきくもり、ピカツ!と光ったかと思うと、耳もつんざくばかりの大きな音が、鳴りひびき、大つぶの雨が、降り始めました。
いっぽう、人々は、とつぜんの雷雨におどろくや、思わず喜びの声をあげました。
「雨だ!雨!雨が降ってきたぞ!」
「天の神様が、ついに雨をくださったぞ!」
長い間、じつに長い間、待っていた雨なのです。その喜びは、たとえようもありません。人々は、顔を天に向け、口をあけて、雨をほおばりました。
こうして、人々や、田畑はもちろん、野も山も、川も、すべての生き物が、よみがえりました。
雨は、七日間、降りつづきました。
田植えをぶじにすませることが、できたのは、いうまでもありません。
人々は、たいへん、ありがたく思い、そのお礼として、行者のため、お寺を建ててました。そして、「孔雀院」と名づけました。
これが、今の地福寺あたります。
その時の天壺が、今も、五條市久留野町にある地福寺に、大切にしまってあるそうです。しかし、役の小角が、天ガ滝で、お祈りの時、使った壺かどうかは、はっきりしません。

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「五條のむかし話」から
「地福寺の天つぼ」 ③
このように、宮々、寺々のお祈りのかいもなく、ひとしずくのおいしるしさえないので、どうどうたまりかねて、天皇は、おもだった人たちを集めて、会議を開きました。
「もし、六月になっても、雨がふらなければ、たいへんなことになる。何か、よい考えは、ないものか。」
その時、藤原不比等という人が、
「申しあげます。わたしの父鎌足が、重い病で、床にふしておりました時、金剛の山で、修行している小角(しょうかく)という役(えん)の行者に、お祈りをしてもらったところ、治らぬ重い病が、ふしぎにも、治りました。今となっては、神通力のある小角さまに、お願いするように、方法は、ないものと思われます。
と、言いました。天皇は、さっそく、その意見をお聞き入れになりました。そして、
「それでは、一刻も早くお願いに行くがよい。」
と不比等に命じました。 天皇の命を受けた不比等は、仕度もそこそこに、金剛山へ向いました。険しい山道を登って、役の小角さまに、出会いました。
「よろしい。では、私が、万民を、救うために、すべての力を出して神にお祈りをいたそう。」
と、こころよくひきうけました。
さて、小角は、金剛山の天ヶ滝にこもりました。
何もたべず、何も飲まず、少しも休まず、岩の上に坐って、お祈りを続けました。この小角の声は、じつにおごそかで、滝つぼのひびきの音に美しくとけこんでいきました。