「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 吉野

吉野の山々は深く 熊も多くすんでいるという話はあります。
木々も多く 動物と人々が住んでいたことでしょう。
そんな吉野の昔話です。
猟師と子熊
むかし吉野の山奥にかりうどが住んでやてな。鉄砲うちが上手で、毎日山へ出て、鳥やけものをうちやってんと。ある日、大きな一匹も熊を打って、担いで帰てえって、
「久しぶりにどえらいのがかかりよった。」
そういうて、祝い酒飲んでぐっすり寝込んでしまやってんが、そやけど、夜中になって、ふと目をさまさった時、台所の方で何やら音がするんやんか。そっと見にいかったら、大きな熊のつるしたそこらたーで、何やら動いとるものがああるねん。
「いまごろ、何やつやろ」
そう思うて、ようようみやったら、小さい熊が二匹、いろりのそばと、大きな熊のそばをあっちこっちしとんねが。
いろりの残り火で小さい手をぬくめては、大きな親熊の鉄砲の傷口をなでてぬくめとってんが。親熊はとうに死んでいるのに・・・・・二匹の子熊は、かわるがわる一生懸命にぬくめてさすっとんねが。
かりうどはそれを見て、
「かわいそうなことをしてしもたもんや」
そう思うて、あくる日、死んだ親熊を売るどころか、畑の隅にうめておがんでやらんとてんと。そいで鉄砲打ちもぶっつり、やめにしやってんと。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 吉野のお話

ガタロの恩返し 大塔村
ずっとずっと昔の話でな。
ある村に助ヤンという人がおってな。生あたたかーい風がふきよる晩、せっちん(便所)に入ってやったら、落しのしたからニュと、猿のようなけだものの手が出てきよってな。そいで、つめたーい手で、お尻をなでるように、しよたんで、助ヤンは、
「エイッー」というて、持っていた山刀で、つめたい手をきりおとしたんや。すると、
「ヒイッー」と悲しい声をあげて、けだものめは逃げて行きよってんとー。
助ヤンは、さっそく切り落とした手を持って家へ帰りやってん。
そいで、ちょっとたったころ、年頃の娘さんが、袖で片手をかくしながら、はずかしそうにやってきやってなー。
「あのー。わたしはこの裏のかわっぷちに住んでいるもんやの。つい、わるーいいたずらをしちゃってすみません。もう、これからはしないわ。そいで、切り落としたわたしのものなの、どうか返してー」
と泣きながらたのまったんや。


そいで、助やんは、何もいわんで、切りとった片手を娘さんに返してたらってんとー。
そいから、いく日かたったある日、娘さんは、もいいちどやってきやったんや。ところが、切り落とした片手がちゃんと、もとのままになってるんで助ヤンは、
「どやって、つないだんや」
と聞かってん。すると娘さんは、
「わたし切り傷にめっそうききめのある妙薬を知っとるや。
そいで、娘と思っていやったのは、実はガタロ(河童)が化けとったんやがな。娘さんが教えよったきずぐすりは、いまも「蒲生の錦草・祐玄湯」っていうて、伝えられてんやねと。

外部資料

                               場所の背景

外部資料 平成まで実際に販売されていた。



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■℡  0742-3-8152

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 吉野のお話

奈良の民話から 南北中部 の三か所に分けてのお話です。
奈良県内大きな面積の南部吉野のお話を紹介しています。 


粟しとっとん 
大阪かどっかの大きな町の大店の話だんね。
ひとり娘できりょうよしに、ムコをもらおうとしやってんが、なかなか見定めがつかあひんので困ってやってんと。そいで、判じもんをさせて、うまく解くもんがでてきやったら、そのもんをムコにしようということになってんと。そいで、店の前のえんげ(縁側)に、粟四斗と算盤を置いときやってんと。
そこへ、ある店のでっちが、子どもをおいねて(背おって)やってきやてん。ほてな、
「アワワ シットントン、アワワ シットントン」
って、子守りをしてやってんが、それを聞かはった旦那はんが、ハタと膝打って、
「あれは、えらい子や、粟四斗を算盤に入れた」
ちゅうて、そのでっちを養子にもらやってんが。ほてイト(娘)のムコになってしあわせにくらさったということや。

■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8452

吉野は日本のパワースポット 薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記

吉野は日本のパワースポット

外部資料

外部資料


4月桜が満開となって山全体が桜色に染まる吉野に出かけられる人々が多いと思います。
その吉野は桜を愛でるだけではなく、古代から人々は祈りを捧げ 修行し パワーの凝縮を感じる地です。吉野は大和朝廷発祥の地、飛鳥から南に拡がる山間部、川上村の丹生川上神社境内地からは、縄文時代の祈りの環状配石施設が発見され、吉野は縄文時代から祈りの地であることが分かった。
日本の国の骨格が出来た古代に、大海人皇子(天武天皇)が、近江大津宮から吉野(宮瀧)へのがれ、雌伏。満を持した壬申の乱で勝利し、古事記、日本書紀、万葉集の編集や律令制度導入など国造りを開始。その後を引き継ぐ 持統天皇が藤原京で完成させた。

外部資料


修験道を代表する地として金峯山寺があり、平安時代の西行は吉野の桜をこよなく愛し奥千本で、西形庵えお結んだ。南北朝時代には吉野に南朝がおかれ、豊臣秀吉は大茶会を開いて吉野の華やかさを全国に知らせた。また幕末の 明治維新の先駆けの天誅組、与謝野晶子 島崎藤村 谷崎潤一郎 など明治から現代までの文人が心をいやした地である。

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薬師寺 花会式結願 鬼の御馳走 薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記

鬼追い式の 鬼の御馳走
花会式の結願では「鬼追い式」が行われる。夜の8時ごろに境内の灯りが消され、鐘や太鼓、法螺貝などの音とともに、松明を振り回して鬼が金堂の周りを大声で叫びながら暴れ回り、最後に毘沙門天が鉾を持って現れ、鬼どもを退散させる。

外部資料
鬼追い式に入る前に、鬼にご馳走を出して酒を勧める儀式が行われる。この儀式は一般には公開されていない。鬼の御馳走は九百年前から秘伝として信者に引き継がれてきた。

酢の物はほうれん草をそろえてゆで、鬼の形に切って、酢レンコンと一緒に器に盛ったもの。
煮しめは高野豆腐、シイタケ、ニンジン、レンコン 湯葉を含め煮にして青身のキヌサヤを添え、根来塗の平椀に盛る。ほうれん草の白和え、煮豆などを根来椀塗の折敷に並べる。
別に高野豆腐をもどし、小型の拍子切って油で炒め、酢と塩で人間の肉の味付け、リボン状に切ったコンブを水に浸して柔らかくして油で炒め、酢と醤油で味付けして人間の皮膚の味に見立てたものをそれぞれ高坏に盛つける。
このご馳走を別室で待っている鬼の前に運び、僧侶によって大きな根来塗の杯になみなみと酒が注がれ、鬼が酔うまで勧められるのである。こうして酔った鬼が、夜になって松明をかざして暴れ回り、すさまじい「鬼追い式」が始まるのである。
火 という畏敬の念を感じるモノ そしてそれを持って振りかざしながら 走る鬼の形相は迫力以上のものがあります。



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