「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 十津川郷の昔話

 蛇の窪


昔、昔、上湯川の梅外垣内の谷奥に三本杉があった。その近くに 蛇の窪 今にも何かでてきそうな古い大きな気味の悪い池があったそうな。
ある日、子どもを連れた女子(おなご)が、その池の傍らで子供を遊ばせて置いて、
「今日もわらびの根掘ってわらび餅でも作ってたべようか。」
と、わらびの根を一生けんめいに掘って、かごの中へ入れていた。
しばらくすると急にあたりが薄暗くなり、ザザッというものすごい音がするので、その方へ振り向くと、おどろいたことに池の中から見たこともない大蛇が出てきて、鎌首を上げたかと思うと、いきなり無心に遊んでいる子供をいっきにのみこんでしまったのである。
女子は気が狂ったようになって子供の名を呼び続け、池の中へ持っていた鍬をいきなり投げ込んだ。
すると大蛇は鉄がきらいだったのか、その池からおそろしい勢いで西川の小坪瀬(こぼせ)の方へ山を崩しながら逃げて行ったそうな。
その崩した所は、今でも残っている蛇崩(じゃぐえ)とい大ぐえであるという

外部資料 こんな所ででしょうか?

上の地図 735の辺りが 梅垣内になり今は 下記トンネルがります。

外部資料

和歌山と県境を接している地域ですが、自然を満喫できる優雅な温泉もあります。

■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  07423-43-8152

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 十津川郷の昔話

東野の角左衛門 の力  実在の人物です。
昔 東野に角衛門という、たいそう、力の強い男がおった。
ある時、この男が田戸へ来ると、米屋の主人が、冗談に「この米俵三俵(百八十kg)もって歩くこと出来たら、ただでやろうぞ」といえば、角左衛門は本気になってしまった。田戸から東野といえば、遠いばかりでなく、額が道につくほどの坂道ばかりである。手ぶらであるいてもしんどいくらい。米屋の主人は、まさか、いくら力があるといっても米俵三俵背負えるはずがないと、思っていた。ところが角左衛門、やにわに米屋のかたわらの竹藪に入って、青竹一本へし折ってきた。そして、枝をしごいて、足で竹をひしゃいでしまった。何にするのかと思っていると、その青竹をおいそ(太いひも)代わりにして、ひょいっと三つの米俵にかけると背に負って、のっしのっしと歩きだしおてしまった。
さあ、びっくりしたのは、米屋の主人。まさか、こんなに力があるとは知らなかったものだから、あわててしまった。元々、やる気なぞ小指の先ほどもなかったのだから、「オイオイお、もうわかった、おろせ、おろせ。」と米俵にすがりついて、「どこにただで米をやるもんがおるもんか。」と、毒づいたそうだ。
角左衛門、口にこそ出さなかったが、よほどくやしかった。こたえたのだ。東野への帰り途、いきなり道の側にあった松を、片うででねじり曲げてしまった。それから、その松のある所を「ねじり松横手」と呼ぶのであるが、角左衛門のくやしさが、今もねじれたまま残っている。
角左衛門は実在の人で、東野へ降りる道端に小さな碑が建てられている。

外部資料

屋敷跡 外部資料 

外部資料 現在東海道自然歩道 になっている




 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14
 ■ ℡  0742-43-8152

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 十津川郷の昔話

音無川と十一面観音菩薩
十津川に沼田原という村がある。現在限界集落に近く 山奥にある村のお話です。

外部資料
沼田原から、焼く一里さかのぼったところに大谷がある。そこには、30メールの高さの大きな滝がある。

外部資料

むかし、むかし、この滝のずっと奥で、一人の仏師が、一心に十一面観音菩薩像を彫っていた。ところが、あまりの水音に気が散って思うように、のみをふるうことができない。考えあぐねた末に
「川の水よ、この菩薩様を彫る間は、どうか静かに流れてくれないか。」
と頼んだところ、願いはかなえられたらしく、水は、突然、川床から消えてしまった。それからは、心乱されることもなく、菩薩様を完成させることができた。この事があってから、この川の一部は川床を流れておらず、少し下流で、また水が流れ出している。それで、この川を音無川と呼ぶようになったのである。
さて、この菩薩像は、野瀬見(のじみ)のお寺に安置されていたが、明治初年の廃仏毀釈に人々は、村々のお寺をことごとく打ち壊し、灰にしてしまった。しかし、この時、十一面観音菩薩像と黒仏と呼ばれていた仏像二体は、心ある村の人の手で秘かに運び出された。黒仏は中井傍示(なかいほうじ)の宝泉寺に預けられたままになっている。菩薩像は、沼田原のお堂に移された。菩薩像は、太鼓の音を聞かねば暴れる、という言い伝えがあったため、毎年、旧の正月十日と盆の十七日には踊りを奉納した。踊りは、篠原踊りをややテンポをはやめたもので、詞はまったく同じであった。現在では、踊りもすたれてしまって、中井傍示から、お坊さんが来て拝むだけである。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目14
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 十津川郷の昔話

玉置山の狼
玉置山は 吉野十津川村にあって 奈良県に属しますが 熊野灘が望めます。

祖父は、嘉永6年生まれで昭和14年にこの世をさりました。家が材木商だったので、15歳になると一人で新宮へ用使いに行かされて、大人扱いを受けたしうだ。
当時の街道は、折山から玉置山を越え、九重村へ出て、そこで一泊。翌朝荷舟に乗せてもらい、やっと新宮へたどりついたそうだ。
ある朝のことであった。祖父は九重へ向かって細い山道を急いで歩いていた。まだ誰も通った者がいないらしく、行先にはクモの巣があり、木の枝で払いつつ歩いた。そのとき、前の方で朝霧を透かして、何か黒く動くものが目に入った。ゆっくり歩いてもいやでもそこに近づいてしまった。
驚いたことに、大きな牛の頭になんと5匹の狼がたtかり、食いついているのである。しばらく木の陰で立ちすくみ、見つめていた。耳まで避けた口は血で赤くそまり、ガツガツ音を立てて食べている。その様子に自分の体は振るえ、鳥肌が立ち、血の気が引いていくのがわかった。
「さあ、大変なところへ出くわしたぞ。これからどうしよう。」
「思い切って前へ進もうか、それともにげようか」
思案するうちにた大分、気が落ち着いてきた。
「そうだ、狼は、めったに人間にかかってこないという。思いきってここを通ってやろう」と決心した。
だが、狼たちは狭い山道をふさいぐようにぐるぐる動き回り、牛の頭にかぶりついている。狼たちは食べることに無我夢中のようだから、うまくこの場を突破できるかもしれん。祖父は度胸を決め、
「ご馳走さまじゃのう」と言いながら、お尻がくすぐったい思いで通り抜けた。狼は食べることとに夢中で、全く知らん顔だったということだ。
「やれやれ、助かった。」
と思わず独り言が口からもれたほどで、後も振り向かず、一目散にその場を走り去ったそうだ。狼は猛獣のように思われがちだが、実際は意外とおとなしく、人に危害を加えることはまずなかったと言う

■住所 630-805奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 十津川郷の昔話

雨乞いのこと
お話の中に 前鬼 が出てきます。修験道の開祖である役小角が従えていたとされる夫婦の鬼 前鬼は夫で 後鬼が妻 と言われています。

彼ら鬼達は、大峰山脈の麓に住んで、修験者の先達をしていた 1300年前位
真夏に、全く雨が降らない時がある。そいうい時には、畑の作物がヨロヨロになるばかりか、田の稲も駄目になる。駄目になるのは作物だけでなく、人間も駄目になる。
そうすると在所の代表者が、前鬼(シャカの近くか)に火をもらいに行く。竹の荒皮をはいで、それを縄にない、火縄をつけて火をもらってくるのである。
(途中で他の在所の人にも火を分ける)もらって来た火は神社へ持ち寄り、火をお祭りする。そのあと松明に火をうつしとり、
あめあめ たもれよ あめあめ たもれよ
あめあめ たもれよ 雲の上の 陣五郎よ
t、みんなで歌いつつ川までおり、松明ごと川に流した。それでも雨が降らなければ幾日も続ける。さて、この火を送った翌日には必ず、誰もいるはずのないあちこちの山に、いくつもの火がともる。
「あめあめ たもれよ」の歌を、大人だけで歌うのは馬鹿くさいし、えらいので子供のもさせたものだ。
雨乞いが、天に通じて雨がふれば、その日は雨が降れば、その日は雨休みといって、すべての仕事を休んだものだった。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152