「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 十津川郷の昔話

氏神様を怒らせた男

外部資料

十津川村は山林に囲まれています。その中で 内原(ないはら)は珍しく水田が広がっています。


ずいっと昔から、ここ内原の在所では、年に一度の氏神様のお祭りの日に、在所の衆ひとりのこらず社の森に集まってにぎわあうことにしておった。
今年も、みなの衆、お神酒をたらふくよばれ、日がな一日、唱え踊れの大賑わい、お天道様が西の山に傾きかけた頃、ようやく切りあげて三々五々家路を急ぐのじゃった。
ところが、あまりの深酒に酔いしれたひとりの男、しーんと静まりかえった森にとり残されたまんまグウスカ眠りこけていた。
やがて、あたりが薄暗くなった頃、ようやく目を覚ましたこの男、なにを思ったか、いきなり、祠を引き開け、ご神体の玉石をだきかかえると、そのままさっさとわが家へ持ち帰った。あくる日、男は玉石を庭に持ち出し、ころころ転がして、ふざけていた。
たまたま、そこへ通りかかった近所の衆が、その様子を見て、びっくりした。
「おい、おい、あの男、気が変になったぞ。その証拠に、ご神体をなぶりさがしとる。さあ、これは一大事、今にばちが当ってどえらいことがおきるぞ」
「氏神様は、怒って奥里奥の熊谷権現へお戻りになったにちがいない。」
と、在所じゅう上を下への大騒ぎ。そこへ、宇井平(在所の上流)の田圃に丸太が通ったような跡がある、という知らせがきた。
「やっぱり、氏神様は熊谷さまへお戻りになったのじゃ。」
「きっと、ぐちなわに姿を変えて帰られたのじゃ」
「さ、そうとなりゃ、一刻も早くお願いして、今一度お連れしよう」
と、在所の衆が神主さんを先頭にたてて熊谷さまへ参ったのさ。
こうして、みなの衆、三日三晩、必死に拝んでいたら、三日目の丑三どき、氏神様は、蜘蛛に身を変えて、やっと、内原の社にお戻りになったということじゃった。
酒の勢いで、ふざけたその男、それからは、二度と酒を口にしなかったそうな。
なんでも、二百年も昔の話。

■住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14
■℡  0742-43-8152

薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記十津川

お大師さまと上湯川
高野山は弘法大師さまが開いたことで名高い山じゃ。
その大師さまが、高野山を開くまでに、全国各地を修行して歩いたのじゃ。そのおり、この上湯川へも立寄られたらしいのじゃ。とくに、大師さまは、人びとが修行するのにふさわしい道場をどこで開くかと、各地を旅して探したようじゃ。


上湯川の上流、古谷川に今でも「見残し滝」というのがある。
これは、大師さまが、谷々を調べ数えるうちに、この滝だけ見落としたらしく、それでその名がついたらしい。(上図左下に上湯川の上流)この見残し滝は、寺垣内の少し上の、大野というところにあるのじゃ。
上湯川の古道を歩いて行くと、道端に「大師がわらじ履き替えたところ」というのがあって、里の人びとは、そこを通るときには榊や花を供えたものじゃ。
また、梅垣内の奥に、大師さまが旅の途中、お弁当を食べるとき使った箸を地面に差したら、のちにその箸が根を下ろし杉の大木になった、と言い伝えられた大杉があるのじゃ。この大杉は、地上3メートルほどのところで三本に枝分かれした大木で、1200年の年令を数えるといわれる。里の人びとは三本杉と呼んで大切にしているのじゃ。
大師さまは、山の中でのどが渇き水に困った。
そこで、旅する者が、こんな山中で水がなくては、たいへんだろうと、この三本杉のところで、水が湧き出るようにと祈り、きれいな水を導きだされたと言い伝えられている。この清水は、今も尽きることなく、こんこんと湧き出ているのじゃ。

■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14
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薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 十津川郷の昔話

 蛇の窪


昔、昔、上湯川の梅外垣内の谷奥に三本杉があった。その近くに 蛇の窪 今にも何かでてきそうな古い大きな気味の悪い池があったそうな。
ある日、子どもを連れた女子(おなご)が、その池の傍らで子供を遊ばせて置いて、
「今日もわらびの根掘ってわらび餅でも作ってたべようか。」
と、わらびの根を一生けんめいに掘って、かごの中へ入れていた。
しばらくすると急にあたりが薄暗くなり、ザザッというものすごい音がするので、その方へ振り向くと、おどろいたことに池の中から見たこともない大蛇が出てきて、鎌首を上げたかと思うと、いきなり無心に遊んでいる子供をいっきにのみこんでしまったのである。
女子は気が狂ったようになって子供の名を呼び続け、池の中へ持っていた鍬をいきなり投げ込んだ。
すると大蛇は鉄がきらいだったのか、その池からおそろしい勢いで西川の小坪瀬(こぼせ)の方へ山を崩しながら逃げて行ったそうな。
その崩した所は、今でも残っている蛇崩(じゃぐえ)とい大ぐえであるという

外部資料 こんな所ででしょうか?

上の地図 735の辺りが 梅垣内になり今は 下記トンネルがります。

外部資料

和歌山と県境を接している地域ですが、自然を満喫できる優雅な温泉もあります。

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薬師寺近くの「うのん」から大和気象歳時記 十津川郷の昔話

東野の角左衛門 の力  実在の人物です。
昔 東野に角衛門という、たいそう、力の強い男がおった。
ある時、この男が田戸へ来ると、米屋の主人が、冗談に「この米俵三俵(百八十kg)もって歩くこと出来たら、ただでやろうぞ」といえば、角左衛門は本気になってしまった。田戸から東野といえば、遠いばかりでなく、額が道につくほどの坂道ばかりである。手ぶらであるいてもしんどいくらい。米屋の主人は、まさか、いくら力があるといっても米俵三俵背負えるはずがないと、思っていた。ところが角左衛門、やにわに米屋のかたわらの竹藪に入って、青竹一本へし折ってきた。そして、枝をしごいて、足で竹をひしゃいでしまった。何にするのかと思っていると、その青竹をおいそ(太いひも)代わりにして、ひょいっと三つの米俵にかけると背に負って、のっしのっしと歩きだしおてしまった。
さあ、びっくりしたのは、米屋の主人。まさか、こんなに力があるとは知らなかったものだから、あわててしまった。元々、やる気なぞ小指の先ほどもなかったのだから、「オイオイお、もうわかった、おろせ、おろせ。」と米俵にすがりついて、「どこにただで米をやるもんがおるもんか。」と、毒づいたそうだ。
角左衛門、口にこそ出さなかったが、よほどくやしかった。こたえたのだ。東野への帰り途、いきなり道の側にあった松を、片うででねじり曲げてしまった。それから、その松のある所を「ねじり松横手」と呼ぶのであるが、角左衛門のくやしさが、今もねじれたまま残っている。
角左衛門は実在の人で、東野へ降りる道端に小さな碑が建てられている。

外部資料

屋敷跡 外部資料 

外部資料 現在東海道自然歩道 になっている




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薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記 十津川郷の昔話

音無川と十一面観音菩薩
十津川に沼田原という村がある。現在限界集落に近く 山奥にある村のお話です。

外部資料
沼田原から、焼く一里さかのぼったところに大谷がある。そこには、30メールの高さの大きな滝がある。

外部資料

むかし、むかし、この滝のずっと奥で、一人の仏師が、一心に十一面観音菩薩像を彫っていた。ところが、あまりの水音に気が散って思うように、のみをふるうことができない。考えあぐねた末に
「川の水よ、この菩薩様を彫る間は、どうか静かに流れてくれないか。」
と頼んだところ、願いはかなえられたらしく、水は、突然、川床から消えてしまった。それからは、心乱されることもなく、菩薩様を完成させることができた。この事があってから、この川の一部は川床を流れておらず、少し下流で、また水が流れ出している。それで、この川を音無川と呼ぶようになったのである。
さて、この菩薩像は、野瀬見(のじみ)のお寺に安置されていたが、明治初年の廃仏毀釈に人々は、村々のお寺をことごとく打ち壊し、灰にしてしまった。しかし、この時、十一面観音菩薩像と黒仏と呼ばれていた仏像二体は、心ある村の人の手で秘かに運び出された。黒仏は中井傍示(なかいほうじ)の宝泉寺に預けられたままになっている。菩薩像は、沼田原のお堂に移された。菩薩像は、太鼓の音を聞かねば暴れる、という言い伝えがあったため、毎年、旧の正月十日と盆の十七日には踊りを奉納した。踊りは、篠原踊りをややテンポをはやめたもので、詞はまったく同じであった。現在では、踊りもすたれてしまって、中井傍示から、お坊さんが来て拝むだけである。

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