「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞いのの歴史
一般に稲作に必要な雨の量は2000㎜と云われる。一方古代、大和は他の地方よりも早くから展け東洋では中国西安の都について多くの人口をかかえていた。「奈良の都」は五穀の一大消費地でもあった。しかし、栗や稗 稲作に必要な雨の量は決して満足出来るものではなく、多くの池が掘られ垂仁天皇35年 履中天皇4年には長い溝も造られ灌漑用水の確保に務められた。更に旱魃の年は一辺が1㍍四方位いの「かくし井戸」さえ掘られ涙ぐましい努力と自己防衛に励まされた。以上のことは浅い山からの河川水は渇水し易く皿池は底が浅く農家の人達の心痛は想像を絶するものがあった。この様な状況の下では神仏に頼む他はなく祈りを捧げ甘雨慈雨の恵みを願った。個人で、少人数で、字や御中仲間が相寄り、更に多くの人達が様々ま手法を講じて神や仏に詣った。天皇自から足を運んだ例もある。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和の伝説」から
「柳生宗矩(やぎゅうむねのり)とおふじの井戸」

柳生の殿様、柳生宗矩が、柳生藩の中にあった興福庵という小寺へまいった時でした。
ふいに一匹のネズミが宗矩の前にあらわれました。宗矩はすかさず鉄扇で打ちたたいたので、ネズミはそのまま影をかくしてしまいました。その翌朝になって見ると、なま血のしたたりが、伊賀街道につづいていました。
そのころ、柳生藩と伊賀の国とは境界のことで、いつも小さい争いがたえませんでした。
このネズミというのが、伊賀の忍術者であることを宗矩は見ぬいていたからだといいます。
そんなことがあってから、伊賀の関所では、柳生の者といえば、町人百姓にいたるまで、その調べが厳重になったといわれています。


その柳生の殿様、柳生但馬守宗矩が、ある日、柳生からむかしの柳生街道を通って、奈良へ行こうと思って、馬に乗って坂原という所を通りました。
村の娘のおふじという者が、井戸ばたで洗たくをしていましたので、宗矩はいきなり馬をとどめて、
「これ娘、お前はいま洗たくをしているが、そこの波の数はいくつあるか」
と出しぬけにおたずねなりました。おふじはすかさず、
「ハイ、二十一波でございます」と答えておいて、すぐ
「殿様、柳生からここまで、馬の足跡は、いくつほどございました。」
と聞きかえした。もちろん、殿様はグッとつまってしまいました。そして、大そうその娘の才気に感心し、お側に召し入れることにして、馬の尻に乗せて柳生へ帰ってしまいました。
おふじが洗たくしていた所は、おふじの井といって、今も奈良市坂原に残っています。
おふじはそれから柳生の殿様の妻になり、一人の子を産みましたが、この子がおおきくなり、柳生氏の菩提所の芳徳寺第一世の列堂和尚という、えらい坊さんになりました。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
馬見丘陵には谷の一方を堰き止めた不規則型のものが多く馬見丘陵は殆ど一筆ごとくらいに「つぼ池」といわれる小さい池が無数に存在している。平地部の池はほぼ整然としているのに対し丘陵や山ろくは不規則型のもので、両者は全く地形上の相異や発生の要因が異なるためである。タメ池の分布は盆地の北部および南西部にとくに多いようである。北部には比較的大きい池が多く南西部には小さい池が多いようである。こうした池の発達は盆地の雨の少ないことによるがとくに引水河川に乏しいことが最も根本原因である。このタメ池は非常に浅く「大和の皿池」と呼ばれている。

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「子供のための大和の伝説」から
「牛若丸と棒術(棒術)」

奈良市大柳生の村のはずれ、白砂川のタライガ淵のかたわら、木の繁った下に、平たい石があります。
むかし、常盤御前(ときわごぜん)が、今若丸、乙女若丸のふたりの幼い子供の手を引きながら、この辺までにげてきますと、急に産気づいたが、どこの家も源氏の落人には相手にのってくれません。しかたなしに村はずれのこの平たい石の上まできて、休んでいますと、男の児が生まれました。それが後に源義経になった牛若丸です。常盤御前は、その児をかたわらの淵につれていって、産湯をつかわせました。それからここをタライが淵と名づけられたといいます。
その平たい石は、今も打つと赤児の声がするといわれ、村人はその石を拝んで安産を祈るということです。


柳生藩の棒術長谷川流の祖、長谷川金右衛門が、奈良からの帰りに、大柳生村を通りかかりますと子供の泣き声が夜ふけの山中に聞こえました。
これはどうしたことだろうと、近よって見ると、常盤御前が牛若丸を生みおとして、旅の苦労をしているところでした。それで金右衛門はふびんに思って、親子を柳生の宅に連れて帰り、牛若丸を養育してやりました。
この縁故によって、後に牛若丸が鞍馬山にいた時、金右衛門はかの山で再会し、この棒術を伝えられました。それがこの流儀だといいます。
今も大柳生には、常磐の森があり、産湯の淵などもあります。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞いの歴史
奈良盆地は全国でも有名なタメ池感慨の発達しているところで讃岐平野とともにタメ池が多い。タメ池の総数は地形図で三千であるが地形図に載らない小さなタメ池を入れると一万三千八百に達する。タメ池による灌漑面積は二万三千四百八十町歩、72% 河川灌は26% 天水 地下水は2%で奈良盆地の稲作は全くこのタメ池に依存している。
タメ池の最も密なところは馬見丘陵である。丘陵は南北約7㎞東西3㎞でここに千五百七十七のタメ池が分布している。1㎞平方メートルについて74 最も多いところは180で水田一町歩に対し211の池がある。(旧馬見町)池の形は正方形か長方形で古代における条理制と密接な関係がある。

外部資料 今の馬見丘陵です。水源が残っている様子がうかがわれます。