「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

赤肌焼

赤肌焼 3回目です
垂仁天皇の時代瓦を焼く土はあちらこちらで採られましたが 優雅な焼き上がりと言われるのはここ五条山の土だけで 神器を作られていました。


室町時代から 風炉が焼かれる様になりまいした。

豊臣秀吉の弟秀長が大和郡山の城主の時代 茶道に明るい小堀遠州の父が家来で五条山の土が優秀なことを知ると 「与九郎」という陶工を招き釜を開かせ それが赤肌焼の起源となっています。神器などを焼き この土地の陶工達も 城主の命令によりj腕を磨くことにが出来たのでしょう。

赤肌焼

野見宿禰は天皇に殉死者身代わりを埴輪にすることの提案を認められ 土師職(はじつかさ)に任じられ 本姓も土師臣(はじのおむ)と改めました。住まいを今の菅原町に構え 五条山の土で埴輪作りをしたと伝えられています。この土地の 菅原神社には
野見宿禰と菅原道真が祀られています。土師氏は奈良朝末期に菅原姓を天皇より賜りそれ以降 菅原と称したといゆことです。

奈良西の京薬師寺近くの本のある喫茶店 うのん

西の京には 薬師寺 唐招提寺 昨日ブログで取り上げた 勝間田池の他に「赤肌焼き」があります。 古典的な柄を焼き付けたのが有名です。しかしながら殆どが青磁色 グレーや柔らかい白っぽいモノが殆どです。「赤肌焼き」の名前は ここ五条山は赤い土で焼き物に適した粘土を使って焼くためと伺っています。
 ここ五条山での焼きモノの歴史は古く 第11代天皇垂仁天皇の時代からです。 当時は天皇や貴族が亡くなると殉死の風習がありました。亡くなっても身の回りの世話に不自由がないように 側者 従者が同じ御陵に生きたまま埋められてました。垂仁天皇は これに心を痛めておられましおた。それを察して野見宿禰(のみのすくね)は埴輪を身代わりにすることを提案しました。その安を垂仁天皇は喜んで採用し 人 馬いろいろなモノをここ五条山で作る様になりました。
本のある喫茶店うのん
✉ honcafeunon.nara.nisinokyo@gmail.com

奈良西の京薬師寺近くの本のある喫茶店 うのん

私の住んでいる奈良 西の京 薬師寺 唐招提寺で有名でな地域です。
その薬師寺の近くで 社寺仏閣の本 特に奈良のモノが多く 専門家の方からお子様まで楽しんで頂ける本が多くあります。ご自分の居間で読書をするような場として そして 地域の方々が気楽に集まって頂ける場にもなって頂きたく この5月にオープンしました。まだまだ素人です お客様と共に良い場所作りしていきたく望んでいます。

この薬師寺 と共に写真に写っているこの風景 奈良の観光マップ等ではよく見かけられませんか?「勝間田池」といいます。ため池として現在利用されています。この池の畔に「竜王山」と呼ばれている所があります。

写真池左上辺りでしょうか。竜王の祠がありました。今も小高い山になって今す。
明治以前の洪水でその祠は流されました。現在薬師寺東院堂の南側に建っています。毎年7月26日は雨乞いを祈って厳修されています。
またこの池は 万葉集にも歌われています。「勝間田の 池はわれ知る 蓮無し 然言ふ君が 髭無き如し」新田部皇子の婦人が呼んだものです
薬師寺から少し足を伸ばしてこの有名な風景を見 池の歴史を感じて見られませんか? 印象深いモノになります。

雷№6 奈良西の京薬師寺近くの本のある喫茶店 うのん

「雷の丘」地名の由来⚡
小子部栖軽は大泊瀬幼武天皇(後の雄略天皇)に親しく仕えてました。
天皇が桜井市阿部付近にあったと思われる「磐余の宮」におられた時のこと 皇后と大極殿で寝ておられました。栖軽はそれに気付かず入って行来ました。丁度その時空に雷鳴がしたので 天皇は直ちに「雷をお招き出来るか?」と言われ 「お招きしてきます。」と答えた。」「それでは お招きしてこい」と命ぜられました。栖軽は赤い衣装に身を包み馬にまたがり阿部山田の前の道と豊浦寺の前の道を通って「軽の諸越の分れ道のところまで行きました。
そこに着いて「天の鳴る雷の神よ 天皇がお呼びですぞ」と大きな声で叫びました。そしてここから馬を引き返して走りながら「雷神といえども天皇のお招きに応じないことが出来ようか」と言いました。走って帰る途中で 豊浦寺と飯岡の間に「雷」が落ちていました。これを見て栖軽は神官を呼び「雷」を輿に入れ宮に運びました。そして「雷神をお招きしてきました。」と天皇に申し上げました。その時雷は光を放って明るく輝きました。これをみた天皇は雷を 恐れ 敬い 褒美を与え雷を落ちた所へ帰させました。その場所を今「雷の丘」と呼んでいます。飛鳥の都の小治田の宮にあります。 今の奈良県高市群明日村雷です