「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
馬見丘陵には谷の一方を堰き止めた不規則型のものが多く馬見丘陵は殆ど一筆ごとくらいに「つぼ池」といわれる小さい池が無数に存在している。平地部の池はほぼ整然としているのに対し丘陵や山ろくは不規則型のもので、両者は全く地形上の相異や発生の要因が異なるためである。タメ池の分布は盆地の北部および南西部にとくに多いようである。北部には比較的大きい池が多く南西部には小さい池が多いようである。こうした池の発達は盆地の雨の少ないことによるがとくに引水河川に乏しいことが最も根本原因である。このタメ池は非常に浅く「大和の皿池」と呼ばれている。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和の伝説」から
「牛若丸と棒術(棒術)」

奈良市大柳生の村のはずれ、白砂川のタライガ淵のかたわら、木の繁った下に、平たい石があります。
むかし、常盤御前(ときわごぜん)が、今若丸、乙女若丸のふたりの幼い子供の手を引きながら、この辺までにげてきますと、急に産気づいたが、どこの家も源氏の落人には相手にのってくれません。しかたなしに村はずれのこの平たい石の上まできて、休んでいますと、男の児が生まれました。それが後に源義経になった牛若丸です。常盤御前は、その児をかたわらの淵につれていって、産湯をつかわせました。それからここをタライが淵と名づけられたといいます。
その平たい石は、今も打つと赤児の声がするといわれ、村人はその石を拝んで安産を祈るということです。


柳生藩の棒術長谷川流の祖、長谷川金右衛門が、奈良からの帰りに、大柳生村を通りかかりますと子供の泣き声が夜ふけの山中に聞こえました。
これはどうしたことだろうと、近よって見ると、常盤御前が牛若丸を生みおとして、旅の苦労をしているところでした。それで金右衛門はふびんに思って、親子を柳生の宅に連れて帰り、牛若丸を養育してやりました。
この縁故によって、後に牛若丸が鞍馬山にいた時、金右衛門はかの山で再会し、この棒術を伝えられました。それがこの流儀だといいます。
今も大柳生には、常磐の森があり、産湯の淵などもあります。

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大和の雨乞いの歴史
奈良盆地は全国でも有名なタメ池感慨の発達しているところで讃岐平野とともにタメ池が多い。タメ池の総数は地形図で三千であるが地形図に載らない小さなタメ池を入れると一万三千八百に達する。タメ池による灌漑面積は二万三千四百八十町歩、72% 河川灌は26% 天水 地下水は2%で奈良盆地の稲作は全くこのタメ池に依存している。
タメ池の最も密なところは馬見丘陵である。丘陵は南北約7㎞東西3㎞でここに千五百七十七のタメ池が分布している。1㎞平方メートルについて74 最も多いところは180で水田一町歩に対し211の池がある。(旧馬見町)池の形は正方形か長方形で古代における条理制と密接な関係がある。

外部資料 今の馬見丘陵です。水源が残っている様子がうかがわれます。

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「子供のための大和の伝説」から
「ものいう地蔵と馬に乗る地蔵」

地蔵さんというのは、野の中に立っておられたりして、人々から信仰されてこられたのですが、ものをいったり、いろいろ人間のするようなことをされる地蔵さんもあるといい伝えられています。
奈良市の尼ヶ辻から南へ一㌔余、電車の西の京の東あたりに、もちのき地蔵という地蔵さんがありあす。むかしはそこに、もちの木があったのでこんな名をつけられているのですが、このお地蔵さんは、むかしから、ものいう地蔵さんとして知られています。


むかし、泥棒がこの地蔵さんの前で、ゲラゲラ笑っていました。
そこへ通りかかった、今の刑事さんのような人、むかしは「さる」といいましたが、そのさるが、
「何がそんなにおもしろいのか」
とたずねますと、
「実は、私は泥棒を働いて、ここまできましたが、この地蔵さんは人の言葉がわかると、かねて聞いておりましたので、
『これ地蔵さん、わたしがぬすっとしたことを、だれにもいわずにおいてくだされ』
というと、地蔵さんは、
「わしはいわんが、おまえもいうな」
と答えられました。あまりのおもしろさに、つい笑っているのです。」
といいました。むろん、その男はその場でしばられました。


奈良ホテルの東に子安の地蔵さんがおられます。むかし、堂守のお婆さんが夜中に目をさますと、堂の中がさわがしいので、のぞいて見ると、
「今夜は忙しいこっちゃ。これからお産の手伝いにいかねがならん」
といって、お地蔵さんは白い着物を着、白い馬に乗って、お産婆さんの手伝いにいかれるところでした。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和の伝説」から
「多遅麻毛里(たじまもり)とたちばな」


上古(じょうこ)、第十一代の垂仁天皇さまは、大和国、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)で天下を治めておられました。
このお宮は三輪山の西北の」ふもと、穴師という所にありました。今はこの辺はミカンの畑が山すそから一面につづいて、大和のミカン所です。
また、この天皇さまの御陵は菅原伏見の東陵といって、西大寺から郡山の方向へゆく電車に乗ると、尼ヶ辻という駅のすぐ西の方にある、前方後円式のひょうたん形の大きな御陵で、周りにきれいな堀をめぐらしています。
気をつけておれば電車の窓からでも拝まれるのですが、この御陵の堀の中に、おまんじゅうのような形をした丸い塚があります。これが多遅麻毛里(田道間守)という人の塚なのです。なぜこの人の塚が、そんな天皇さまの御陵のお堀の中にあるのでしょうか。それにはこんな伝説があるのです。
たぢまもりは垂仁天皇のころの人ですが、たぢまもりという名のごとく但馬の国から見た人だと思います。先祖は天日槍(あまのみひぼこ)という人で、朝鮮の新羅の国から来た人です。
ある日、垂仁天皇は、常世(とこよ)の国に、ときじくの香菓(かぐのこのみ)という珍しい果物があることをお聞きになりました。この果物を食べると、不老不死といって、何年年でも長生きができるといううわさでありました。
そこで、ある日、たぢまもりをお召しになって、常世の国へ行って、この果物をとって来るようにと仰せつけになりました。
さて、この「ときじくのかぐのこのみ」という果物は何かといいますと、今の橘のことらしいのです。ミカンの一種です。また常世の国というのはミカンのできる一年中暑い南の国で、今の南方諸国のことでありましょう。垂仁天皇がこういう大事な役目をたぢまもりにおいいつけになったのは、たぢまもりは外国とも交通し、航海にもなれていたからだろうと思われます。
たぢまもりは勅命を受けて大へん感激し、何とかしてこの「かぐのこのみ」を持って帰り、天皇に献上申さねばと、大きな決心をしてこの日本の国を旅立ちました。
それから長い年月の間、大へん苦労をつづけ、海を渡って遠い常世の国へ着きました。そして見事な「かぐのこのみ」を持って、大和の纏向の宮へ帰って来たのは出発してから十年もたって後でありました。
ところがどうでしょう。帰ってみると、その垂仁天皇はおなくなりになったあとでした。たぢまもりはどんなにがっかりしたことでしょう。すぐ垂仁天皇の御陵の前に「かぐのこのみ」をお供えし、御陵の前に泣き伏して
「お天子さま、ごらんくださいませ。この通り仰せの実をとってまいりました。どうぞごらん下さいませ。」
とかぐのこのみを両手にさし上げ、くりかえしくりかえし御陵の前で泣き叫びつつ、とうとうさけびつづけて死んでしまったということです。