「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
大和の国では推古以前からも五穀の豊かな稔りを祈っていたが、1956年(推古7年599から)まで数えられる旱魃の回数は123回にも及んでいる。
池造りにはげむ
旱魃害を防ぐため歴代天皇は池を造ることを詔されている。先ずはじめに崇神天皇は詔して曰く 豊(なりはひ)は天下の大なり。民の持みて以て生くる所なり。中略 十一月苅坂池 反折池 を造る。垂仁天皇の場合は冬の十月倭の狭成池及び迹見池を造る。景行天応は坂手池を造る。応神天応は𠝏池 輕池 鹿垣池 贋坂池と四つも池を造った。履中天皇は余盤池を 推古天皇は倭国に高市 藤原 廣岡 菅原 の池を造り六年後液上 畝傍 和珥の池を造る。皇極天皇は南渕の河上に幸(いでま)し蹊きて四方を拝み天に仰ぎ手祈ひたまふた。首族の長は百姓の情みに応えることで徳治の範を示した。」

薬師寺近くの うのん から今週のお勧めの本


 地名の いわれ なぞ など話が記載されています。
桜井市の桜井は発掘調査速方展の紹介
大仏様造立 復興に携わる話
奈良の魅力を満載です。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞いの歴史
昇温期
二万年前を過ぎた頃から、北半球の気温は少しずつ上がり始めた。大陸氷床や山岳氷河は徐々に融け始め海面がゆっくり上がってきた。この後三回ほど、ほぼ三千年くらいの間隔で気温の低下、海面の下降があったようであるが、いずれも数百年間ずつの一時的なもので全体的としては気温は上昇を続け海面もまた上がり続けた。
この結果 最初にまず津軽海峡が切れ(一万八千年前頃)すぐ続いて朝鮮海峡(対馬西水道)が切れ、次に対馬海峡(対馬東水道)が切れ(一万六千年前頃) これで黒潮の分流は対馬海流となって日本海に流れ込み、地球自転の転向力で右にそれ、本州の日本海岸沿いに北上することになった。このため、山陰 北陸の気温はおおいに温和化されたが、その代り日本海の水温差は急に大きくなり冬の北陸では大雪が始まった。やがて一万三千年前を過ぎた頃、黄海・東シナ海大平原が南東部から北西に向かって徐々に水没し始め 海面が開き黄河と揚子江が後退し朝鮮が南の方から半島化してきた。次いで瀬戸内が海没し、はるか南では台湾海峡が切れて島となった。(一万二千年前頃)さらに一万年前頃になると、宗谷海峡が切れて北海道が島となり、結局いまからおよそ一万年前になると、この国土はほぼ今日の姿になり平均気温はまだ現在より二度ぐらい低かったが四季の気象の移り変わりもまたほぼ今日と同様になった。ただし、関門海峡が切れて瀬戸内の潮流が今日の姿になり間宮海峡が切れてリマン海流が南下し、日本海の水温分布がさらに今日の状態に近づくのはもう少し後で、八千年ぐらいとみればよいであろう。およそ七万年前から続いたウエルム氷期はこれで終わり、後氷期(おそらく間氷期)の時代に入る。この国土はすでにして日本であり、この国土の人々はもう日本人である。かつて大陸から渡ってきた人々はその大陸から切り離され自分みずからの歴史を歩み始める。縄文時代が始まったのである。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和の伝説」から
「帯解奥の院の竜」

奈良市帯解町の奥の院の地蔵さんといわれているお寺の名は竜象院といいます。このお寺にこんな伝説が伝わっています。
むかし、このお寺の西方市の池に一頭の竜が住んでいました。ときどき村人を取って食うので、竜を退治しようということになりました。
池のつつみにかがり火をたいて、大さわぎをしましたが、一こう竜は姿を見せません。
そこへ一人の武士がとおりかかり、わしが退治してやろうといって、池のまん中へ矢をうちこみました。すると、たちまち、すさまじいかみなりと共に、大暴風雨になって、竜が池の中からおどり出ましたので、武士は弓を捨て、剣をぬいて、竜にきりかかりました。そして、ずたずたに切れた竜が落ちてきましたが、武士の姿もついに見えなくなりました。これは竜象院の名についての伝説ですが、いま一つ、この寺の本堂の天井の竜についての伝説もあります。
江戸時代の末、百拙和尚が、この寺を再興した、時に、本堂の狩野春甫という絵かきに、竜の絵絵をかいてもらいました。その後、百拙和尚がヒョイと天井を見上げると、竜のひげが水でぬれています。翌日、また見上げると、やはりぬれています。ふしぎに思って、そこから毎日見ると、同じくぬれています。
そこで和尚は、ある夜、ひそかに本堂にしのんで見ていると、竜は夜の十二時ごろになって、本堂をぬけだして、付近の広大寺池へ行き、つつみの上から首をつき出して、池の水をがぶがぶと飲んで帰ってきました。
その後も毎夜、そのとおりにしました。そこで和尚は考えて。昼の間に竜の目にくぎを
打ち、うろこを三枚墨でぬりつぶしておきますと、もう竜はうごかなくなったということです。
百拙和尚が、このお寺を再興して、竜を描いてもらったというのは史実ですが、それからあとの話は伝説であります。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
ウルム氷期
日本の気候が、いまの姿になるさらに一万年ほど前、つまり二万年前はウルム氷期の最盛期でユーラシア大陸や北米大陸の高緯度地域は広大な大陸氷床におおわれていた。ユーラシア大陸氷床の中心部はスカンジナビア付近にあって厚さ4,000㍍にも達していたと推定されており、大量の水分が陸上に固定されたため、海面が100㍍以上低下した。
この低下量が微妙なところであるが、日本付近では、海岸段丘や海底地形の研究により、およそ140㍍と推定されている。我々の国土はひと続きの回廊となり、丁度古代人が使っていた釧のような形で北と西で大陸につながっていた。