「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

心念寺の「お地蔵さまの雨乞い雨乞い」④


東新堂 新屋敷のお百姓の喜びは勿論この話は人から人に伝わりました。
その後は毎年「お地蔵さんの日」になり近在の農家からすいか なす キュウリ カボチャなど沢山のお供えが上がり 」の話を聞いた 他府県の方々まで提灯を供へなさるなどして門から本堂の間には大きな提灯がずらりと並びお店なども出て随分にぎわったということです。

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心念寺の「「雨乞い祈祷お地蔵さま)③

外部資料

こうして「お地蔵さま」を中心にした長い行列は土けむりの上る炎天下の道を東新堂に向い次いで新屋敷と廻りながら お念仏をとなえ続け行かれました。
そして、行列もやがて 三輪をさしてもどりの道にさしかかった途中のことです。今まで雲一つなく明るく晴れ渡っていた三輪山の上に急に黒い雲がたちのぼり、にわかにあたりが暗くなったと思ったその時です
おおつぶの雨がざっーと一行の上に降り」かかりました。
「雨だ」「夕立だ」人々は踊りあがりお念仏の声は雨音を消すほど一層大きくなりました。
この雨のおかげで、あれほど乾いていた田圃や畑にも水がたっぷりそそがれ一ヶ月ぶりに水をたっぷりすって土も黒い色にもどりました。そして稲も野菜もやっと生き返りました。

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「子供のための大和の伝説」から
「魚養塚と額塚(ぎょようづかとがくづか)」



奈良には吉備塚(きびづか)、俊寛塚(しゅんかんつか) 剣塚(つるぎつか)などいろいろの塚がありますが、その中で、魚養塚と額寺のことをかきましょう。
十輪町の十輪院内に魚養塚というのがあります。
奈良に都があったころ、日本から中国へ使いに行った遣唐使が、中国に滞在中、彼地の婦人と仲よくなって夫婦となり、一人の子供をもうけました。
その遣唐使(吉備真備だともいう)が日本へ帰る時、婦人に
「今後、遣唐使が入唐する時には、必ず手紙をことづけるよ。子供は迎えに来るまで大事に育ててくれ」
といって約束しまたが、その後、何の便りもしませんでした。
母親はその仕打ちに腹を立て、子供の首に「遣唐使の子」という札をつけて、海へ流しました。
子供は大海の中に流されましたが、さいわい大きな魚に助けられて、ようやく難波の浦(大阪湾)に着き、ふしぎな縁で父に対面し、魚に養われたので魚養(うおかい)と名づけられます。
魚養は成長してりっぱな坊さんになり、医術と書道にも名をなし、十輪院を健立しました。
十輪院内の魚養塚は魚養の墓だということです。
奈良の興福寺の南円堂の南大門に月輪山という額がかかっていました。ある年、門前に大穴があき、大水が噴き出しましたので、占師に占わせると、「月輪は水に縁があるから、取りおろせ場よい」とのことで、この額をおろして埋めたのがこの塚だといいます。

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心念寺の「雨乞いお地蔵さま」②
大福村の東新堂 新屋敷の農家の人々は相談の上
「何とか心念寺の 雨乞い地蔵さんにお出まし願えんものか」と村の総代さん達がお願いに来られました。
その頃の住職さんは今の住職さんのおじいさんに当たる聞治和尚さんでしたが 村人の願いを聞いて 「雨乞いの特別祈祷と出開帳をされることを決心されました。
それまでは、このお地蔵様は秘仏として地蔵堂の奥に安置されており、代々の住職以外はだれも間近に拝むことは出来ませんでした。
そして 7月23日のお地蔵さんの日を中心に7の日間のご祈祷が毎日続けられることになり、本堂の前に台が組まれ、初めてお地蔵様を目前に拝むことが出来ました。
お地蔵様は木造りで子供の大きさをしておられました。
連日炎天下で住職さんのご祈祷が続けられ、農家の人は、勿論 檀家の人や近在の人々も「なむお地蔵様」と和尚さんのお念仏に合わせておがみました。
和尚さんは衣まで汗でびっしょり、そのうち誰かが叫びました。
「お地蔵さん汗かいてはる」皆んなは一せいにお地蔵さんを見ました。お地蔵さんの頭から、額から、流れる汗のあとがたしかに人の目にはっきりと入りました。
7月1日のご祈祷も終わりお地蔵さんは御神輿のような台座に乗せられて、いよいよ出開帳として村々を廻られることになりました。
東新堂 新屋敷 からは大勢の村役の人がお迎えに来られ檀家の人や三輪の人々が町はずれまで見送られました。

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「子供のための大和の伝説」から
「不審ヶ辻子(ふしんつじがづし)」



奈良市の御所馬場と鶴福院町との間を通る東西のせまい横町を不審ヶ辻子といい、俗にフリンガヅシと呼んでいます。この面白い町名ができたいわれにこんな話があります。
むかし、御所馬場に松浦という長者が住んでいました。ある夜、ひとりの賊がこの家へ忍びこみました。長者はこの賊を押えて、現在奈良ホテルのある鬼隠山(きおんざん)から谷底へ投げこんで殺してしまいました。
その後、この賊ての霊が鬼となって、毎夜、元興寺の鐘楼に現われて、人をなあやました。
当時、元興寺には、後に道場法師となった偉い坊さんが、まだ小僧で修行していましたが、この小僧さんが進んで鬼を退治しようと申し出ました。そして鐘楼で待ち受けていますと、果たして鬼が現れてきました。そこで小僧さんが鬼とはげしい格闘をし、まだ勝負がつかないうちに夜が明けてきました。夜が明けてはと、鬼はあわてて鬼隠山の方へにへ出しました。小僧さんも続いてその跡を追いましたが、今の不審ヶ辻子の辺までいった時、たちまち鬼の姿が見失われました。それから、フシンガヅシという地名が出たといいいます。
この元興寺の鐘楼にあった鐘は、現に奈良市高畑町の新薬師寺の鐘楼にかかっていて当時、格闘の時の鬼の爪のあとというものが、その片側にたくさん残っています。