「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「さかさのゆうれい」

天理市東南部の龍王山上に、山城を築いた十市遠忠は、その山のふもとにある長岳寺を陣地として城を守っていました。
その頃、相手方の松永久秀という武将は、十市氏と戦うために長岳寺に攻め入りました。
寺では遠忠が迎えうち、久秀と組みうちになったのです。
二人は共に強くて立派な武将ですから、組んずほぐれつの血みどろの戦いが寺の中で展開されたのです。二人のわらじは血でぬれ、床板には血のわらじの跡が残りました。寺ではこの時の壮烈な戦いを記念する為に、この床板を本堂の天井板として使って、保存することにしました。
「わしは、さかさまになって戦っているゆうれいを見た。髪をふりみだした、ものすごい形相やった」「いや、わしが見たのは、まるで死人が歩いているようなゆうれいじゃった」「わしは何も見えへんかったがなあ」「そりゃそうじゃ。夜に、それも風の吹く日がよいのじゃ」などと、いろいろなうわさが広がりました。
人々が血のわらじの足跡を見るたびに、そのすさまじい様子を想像して、大勢の死者を出したこの戦いの亡れいが出るように思ったのでしょうか。あるいは、この世に未練を残して死んでいった多くのさむらい達が、成仏できずに本堂にさまよっているのでしょうか。長岳寺のさかさゆうれいとして、血のわらじ足形と共に今も伝わっています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「腰痛治しの地蔵さん」

この地蔵さんは「、萱生と言う村のはずれに、今も大和盆地が良く見える、一番良い所に建っておられます。
「はやく腰痛が治りますようにと、腰から下の病気をお願いすると治してくださる。」誰れに言うともなく、ありがたいお地蔵さんの話が伝わりました。お花はいつも美しく、線香や果物も供えられています。
丸い頭ののにこにこ顔のお地蔵さんの話が伝わりました。
朝和小学校の東に広げるみかん畑の道を登って行くと、「萱生」という村があります。その村から一キロ北の方へ行くと「竹之内」という村があります。この両村では、毎年、夏の終わりの晴天の日を利用して、村の人全員で賑かに「池掘り」が行われます。毎年「今年はどんな大きな魚が取れるか」村中の話題になっています。
いよいよ池掘りの日がやってきました。賑かな池掘りの最中に、一人の男が大声で「でたア-」とさけびました。「何が出たのだ」と皆が集ってきました。するとそこには、一枚の岩に刻みこまれた二体のお地蔵さん現れました。「さわらぬ神にたたりなし。クワバラ、クワバラ」と、えらいさわぎになってしまいました。
庄屋さんが「念仏寺の無縁墓へお移しをして、お祀りをしよう」と決めてしまいました。
選ばれた力持の若者によって運ばれて行きました。途中で「一ぷくしようで、一ぷくを」と、若者達は腰をおろして休みました。
そこは、大和盆地の良く見えるすばらしい所でした。
お地蔵さんは池から出してもらったもらったものの、淋しい中山の念仏寺の石仏になりたくはありませんでした。「よし、この辺がいいなあ。こんな見晴らしのよい場所は他にないだろう」と、お地蔵さんは、萱生の村はずれで眺めの一番良いこの場所をきめておしまいになってしまいました。
若者達が一ぷくをやめて「さあ行くぞ-」と、肩に地蔵さんをかつごうとしましたが、どうしたことことか力一杯ふんばってみましたが、不思議な事にかつげたはずの地蔵さんが今度はビクともせず、かつぎ上げることが出来ません。「いたい、いたい、うう」と、足腰の痛みに堪えることが出来ず、悲鳴をあげて、若者達は腰をかかえ足を引きずりながら「クワバラ、クワバラ、お地蔵さんのたたりだ」と村ににげて帰りました。

若者達の話を聞いた村人達は、お地蔵さんの怒りにちがいないと、その場所で丁寧にお祀りをして、お経を唱え供養をしました。すると若者達の腰痛は、不思議にうそのように治りました。このお地蔵さんは、今も山の辺の道の見晴らしの良い所にたっておられます。

薬師寺近くの うのん から 皐月のお知らせ

今月のお薦めの本

国宝の拓本多く紹介されています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「おめでとう」を言わない村

萱生の村では、正月になっても〆縄を飾りません。お目出度(おめでとう)うとも言わない
のです。
この風習について次のような話があります。江戸時代、幕府体制のもとで、年貢米のとりたてがきつくて、農民はなかなか大変でした。
そのような農民の苦しい生活がつづいている時に、天明年間の大飢餓が襲ってきたのです。米は稔らず、収穫も皆無でした。年貢米どころか、自分達が食べることすらできない状態で、農民は大変困っていました。年の暮になっても年貢米が入って来ないので、役人は庄屋さんに「年貢米が納められぬのなら、お前をひっとらえるぞ」と庄屋さんを番所に連行して、牢に入れてしまいました。それは暮から正月にかけての出来事でした。
そんなことがあってから村人達は、庄屋さんが私達の代りにおなわをかけられて牢屋につながれ、暮も正月もなく捕われているのに、わたし達だけが〆縄を飾り、お目出度うと言って正月のお祝いをすることは出来ない。庄屋さんの苦労を共にしようと、正月のお祝いに行事の一切をつつしむようにしました。また、初詣での道中、人に会っても口をきかない風習が生まれました。今でもまだ続いているということです。
昔の義理人情の現れている風習だと思われます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「夏目谷の天狗」2


ある月の晩、呉作が夏目谷の方へフラフラと歩いていきました。男はほろ酔い気分で明るい月に見とれていました。ふと見ると、目の前にきれいな女の人が立っているではありませんか。「だんなはん、わたしをよめはんにしとくなはれ」と女に言われ、男はすっかりうれしくなってしまいました。
こんなきれいな女がわしの嫁になってくれるなんて、男は早速「おいらの嫁さんになっておくれ、負うたるさかい」と女を背負い、村へ帰っていきました。村の灯がついそこに見えているのに、なかなか村には行きつかないのです。男はあせりました。背中の女はだんだん重くなり、くい入る様に感じるのでした。とうとう男はその場へ座ってしまいました。夜があけてきました。「オヤっ、おまえは村の呉作どん、何してるんや」と村人が通りかかり、びっくりして見つめました。男はくたゝになって、大きな石を背中に負うていたのでした。男は夢からさめたように背中の石をおろして、嫁さんだと思って負うていた女が石になり、がっかりしてしまたのでした。


夏目谷の天狗は、ちょいゝ村人にこんないたずらをしたそうです。