「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「宝剣子狐丸」


ある時、布留の里の女が、木枯の吹く寒い冬の夜、淋しい菅の森にさしかかりました。ひとりではなんだか心細く、こわいなあ、何も出てこなければよいが、と思って歩いていると、後から呼びとめる声がしました。
「もし、女衆さん、わたしの子どもがお腹をすかして泣いています。母に死なれた子どもはふびんです。どうか乳を恵んでやって下さい」と、狐がいともあわれな声を出して女にうったえました。
女はホッとすると共に「かわいそうな子狐よ、わたしの乳を飲ましてあげましょう。わたしは毎夜、この時刻にこにこ参りますから」と言って、毎晩通い、子狐に乳を授けてやりました。狐は大変喜びました。
そして、この後恩返しをしようと、ある刀鍛冶の弟子に化け、向槌を打って、人振りの刀をこしらえました。立派な刀が出来上がりました。
狐はその刀を女の人にお礼にと贈りました。女は大そう喜んで、「小狐丸」と名付け、自分の守り刀として大切にしていました。
その頃、菅の森の池の中に、恋に破れた女の化身の大蛇が、毎夜毎夜、大あばれして、花嫁を連れ去り、田畑を荒し、人々を苦しめ、その地方の人々は困っていました。その事を聞いた女は、狐の助けを借りて、その大蛇を退治しようと、池へ行きました。
狐からもらったあの子狐丸を揮って、大蛇に切りつけました。
大蛇はあばれくるい、のたうちまわり、子狐丸にのどを突かれ、とうとう真赤な血で池を染めながら、退治されてしまいました。
村人も大喜び、小狐丸を持った女にみんなでお礼を言い、喜びあいました。
大蛇を退治して帰る途中、三島の庄屋敷東、姥が堰で、刀の血のりを洗い清めたと言われ、今もその地が残っていますが、天理教本部の南門前にあたり、暗渠となってしまいました。
女は自分の里の布留郷へその刀を持ち帰り、明神様に献上しました。小狐丸は今も石上神宮の宝蔵の中に納められています。
小狐丸は、江戸時代、古墳の盗掘が流行した頃、この刀を持っていくと墓のたたりがないと言われ、一時、盗賊の手に入り、魔除けにつかわれていた事もありましたが、その後、ある殿様のあまりの素晴らしい刀に、これはなみなみならぬ刀であろうと、由緒をたずね、もとの石上神宮にもどることになりました。何回も盗難にあった刀ではありましたが、今はもとの神宝として納められました。この刀を抜くと、小狐の走る姿が現れると不思議なこの刀には、こんないわれがあったのです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「布留の名と神杉」


布留の名はどうしてできたのでしょうか。その事については、いろいろ言われていますが、次のような話もあります。
昔、今の布留川の上流から、一ふりの剣が美しい水の流れとともに、泳ぐように流れてきました。そして、ながれながら剣に触れるものを、次から次へと二つに切っていきました。
そのとき、その川の下流では、一人のうち若い娘が洗濯をしていました。
ふと、娘は頭を上げ手川上を見ると、川上から岩や木を切りながら、流れてくる剣が目につきました。すばやく避けようとした瞬間、洗いすずがれた白い布の中に剣が流れ込んだのです。あわや布が切れたかと思いましたが、そのまま剣は布の中にぴったりと留まっているではありませんか。娘はびっくりしました。こんなに鋭い剣が布をも切らずにその中に留まったことへの驚きようは、言いようもありません。ふと、われにかえって、この不思議さにつくづく感心しました。
これはただごとではない。神様のされる事だと、早速その見事な剣を社に奉納しました。
そして、剣が布に留まった所ということから、布留という地名が出来たとも言われています。
万葉の古歌に、ふるの神杉と歌わtれている神杉に、次のような話があります。
昔、いその神の振る川という川’(今の布留川)の流れは、山も深く樹木も生い茂っていて、流れも美しい川でありました。当時の人々の暮しにとっては、欠かす事のできない貴重な川でした。
或る日、一人の女の人が白い布を洗っていると、上流から草木をなぎ倒しながら、泳ぐように流れを下ってくる細長いものが目につきました。みるみるうちに白布にすっぽり包まれ、よくよく見れば剣の先は鋭く、まばゆいばかりに光を放っている鉾でした。
驚いた女は、自分の家に持ち帰る事を恐れて、川のほとりに立てて、日毎お祭りを欠かさず行ったという事です。そのおかげで人々は、日々平和な生活が出来たという事です。
その後、その鉾も愚痴にさらされ、朽ち果てました。
そこで、その地に穴を掘り、その鉾先を埋めて祭りました。すると、間もなくその地に杉が芽ばえ、天をもさすよう、すくすくと成長したようです。その後、こんぽ杉が布留の神杉と言われるようになったと言う事です。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「車返し」②
また "車返し”には、こんな伝説もあります。
昔、白河天皇の勅使が、多武峰、大和神社 石上神宮等への参詣の折、車に乗ってここを通ると、にわかに車がころんだ。不思議に思った勅使が、最近のもの占いをさせたところ、

「三十町西に管田明神があって、東を向いておられるのに、その前を車で通るからだ」と占いました。それで使いを立て、社殿を南向きにし、毎年九月八日に馬司から馬を七十に疋献上するとの誓いを立てると、車はなんなく動きだしたいということです

また、一説には、大和神社の勅使がこの地にさしかかった時、このあたりで争いがあって物騒だったので、難をさけてここから京都へ車を引き返したということです。そこでこの地を、"車返し”というようになったということです。そして、大和神社のちゃんちゃん祭(四月一日)のお渡りに出される千代山鉾というもは、この勅使の代りだともいわれています。
この地は明治の終わりまでは、”八町なわて”という野中の道で、その道を横ぎって東から川が流れていて、そこに青石橋という橋がかかっていたということです。そして、現在では人家が密着し、天理教の詰所も建ち並び昔の面影は全然ありません。また、"車返し”の地名を知る人も少なくなりました。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「車返し」
天理市の田部から川原城に通じる奈良初瀬街道に"車返し”というところがあります。
この地名の由来については、いろいろの説があるようです。
昔、桓武天皇の御代征夷大将軍・坂上田村麿が車に乗ってここを通りかかりました。するとどうしたことか、にわかに車が泊まり、あともどりをしました。困った将軍は、進めるように命令してもどうしても進むことができません。途方にくれていた将軍の前を、一人の白髪の老人が通りかかりました。将軍はその老人にことの次第を話すと、老人は占いをたて、しばらくして、
「この車の動かないのは、この地から西の方にある、八条村「現在大和郡山市八条町)の管田神社の社殿が東を向いておられ、その前を甲冑で通ろうとするからからだ」と占いました。そこで将軍は、人をつかわして、社殿を南向きに変えさせました。すると不思議なことに車は前進はじめたということです。
それからこの地を、"車返し”というようになったと伝えられています。この伝説の管田神社は、事実この車返しから約4キロのところにあって、南を向いておられます。その時に南向きにかわったのか、さだかではありません。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「在原業平と井筒」


平安朝の頃、在原業平は今の天理市櫟本町の在原寺のあたりに住んでいました。業平は歌をつくるのが上手な人で、なかなかの男前、女の人に好かれる男性でした。幼い頃、仲よしの女の子とそばの井戸に姿を映し合い井筒のへりに小袖をかけて遊んでいました。女の子は業平に思いをよせておいたのでした。
しかし、大人になって業平は、河内の女性を恋するようになり、遊び仲間の女の子を忘れてしまいました。業平は河内へ河内へと足しげく通い、河内姫の下品ないやしい態度に、業平は河内姫にもいやけをさしていました。うつり気の男心なのでしょうか。在原へもどって河内に出向かなくなった業平を、河内姫は追いかけて一本の柿の木の下の井戸のところまでやってきました。業平は柿の木へ登りかくれていました。井戸の中にうつつった業平の姿に、河内姫は「この中に業平様が」と、井戸の中に飛び込んでしまったのです。あわれな女心はむくわれず、井戸の中へ消えてしまいました。この井戸は、「業平姿見の井戸」と伝えられています。
さて、幼い頃、遊んだ女の子も大人になり、業平に思いをよせていたのに、河内へ河内へと通う業平に男心の心かわりがうらめしく、形見にもらった業平の冠をかぶり、我が姿を井戸の水にうつしては片思いの淋しいさをまぎらわしていたのでした。年毎に老いゆく我が姿に恋をとりもどすことも出来ぬままに、一人淋しく思い出に生きる姿となって、草ぼうぼうの井筒に果てるのでした。この淋しい姿の亡霊の物語は「能」の「井筒」にも書かれ、舞われ上演されたりしています。
「虫啼くや 河内通ひの 小堤燈」
という蕪村の句碑にも残されている業平道は、今でも農道として、そのままに昔の歌人をしのぶ草深い野道が残っています。