「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「河合町郷土風土記の内 童謡 子供の遊び 里歌 其他」
「たこあげ」
たこ凧あがれ
天まであがれ
たこ凧あがれ
絵だこ
字だこ
たこたこあがれ
天まであがれ

はごいたつき
ひとめ ふため
みやこし よめご
いつやの むさし
なゝやの やくし
こゝのつとう


ひとめふため
みやこしよめご
いつやの むさし
なゝやの やくし
こゝのやね
とまった。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」の紹介から


今日から「河合町郷土風土記之内童謡子供の遊び里歌 其他」

正月の歌
正月が近づくと子供やで子守をす おばあさん達が歌っていた昔し(昭和30年過ぎまで)はご飯といって食しであった。今のように米ばかりのご飯は正月が秋祭りぐらいあった。魚もなかなか買えない時代には正月に食べるボーダラはごちそうであった。ボーダラは今も正月のごちそう(お節料理)の一つである。餅又はあともいうのは農家の休みには必ずといってよいほど食べるごちそうである。もちも祭り正月以外は主にもだんご粉もちであった。だんごは悪い米を餅米にまぜて渇いた餅粉もちは小米や悪い米を粉にしてつくった餅


正月きたら
なにうれし
お雪のような
ままたべて
わるきのような
ととそえて
ごいのような あもたべて
おこたに入ってねんねこしよ


正月きたら
なにうれし
赤いべべ(着物)
たびはいて
お雪のような
ままたべて
わるきのような
ととそれて
ご石のような
もちたべて
おこたにあたってねんねこしよう

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「馬魚」(馬の顔をした魚)

昔、後醍醐天皇という天皇がおられました。この天皇は、大変おえらい天皇だったのですが、当時、世の中より追われる身で、笠置より吉野へ逃げのびようと、おしのびの旅をつづけられ、山坂を超え、やっと今の天理の内山永久寺までたどりつかれました。
後醍醐天皇も、そして、その御乗馬も、ホッとしたのもつかの間、天皇の御乗馬は疲れが出て、力がつきたのでしようか、池のほとりでたおれてしまいました。天皇は倒れた馬を介抱して、一生懸命助けようとしました。
「おい、しっかりしてくれ。元気を出してくれ。私のためにここまでよく頑張ってくれたのに」と、たてがみをなで、なすすべもなく馬は虫の息で天皇に申しました。
「天皇様、私は吉野までお供しとうございました。しかし、もう、私はお供をする力がございません。吉野までいかれないのが残念で、死んでも死にきれません。私はこの池に入って魚になり、天皇様のおそばにはついて参れませんが、御道中の御無事を祈りつづけて参ります。先立つ罪をお許し下さい」と、馬は最期の言葉を残して死んでしまいました。馬の亡霊は、その池の魚にのりうつったのでしょうか、その池の魚は馬の顔になっていました。そして、草を食べる魚と、珍しがられるよぷになりました。その魚が天皇の御無事を祈りつづけ、天皇をお守りしたのでしょうか、淋しく御出発になられた天皇はつつがなく旅をつづけられ、吉野まで、無事にお着きになったということです。
馬の顔をした魚は、この本堂池だけでなく。奈良東大寺の鏡池にも、ひ鯉やま鯉に混ざって泳いでいる馬魚の姿が見られます。この池の他にも、石上神宮にも馬魚が住んでいます。いずれもこの本堂池より移されたものです。
この馬魚の実名はワタカといって、琵琶湖と淀川にすんでいる日本特産の魚だそうです。永久寺の放出会の時に、誰かが淀川付近のワタカをこの本堂池へ放ったのが繁殖したのではないか、ということです。馬魚が草を食べることから、そして、後醍醐天皇の御乗馬がこの池のほとりで死んだことから、この伝説が生まれたのでしょう。
ほんとうに馬の顔をしているのでしょうかね。

薬師寺近くの うのん から 水無月 のお知らせ

今月のお薦めの本

秘蔵の拓本まで紹介されています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「守目堂の由来」 ②


今のように交通機関も発達していませんし、山の中に行くのは大変な事でした。ふもとの時、近くの矢付尻というところの白山権現に、ささやかな観音堂のあることを思い出したました。「壺阪までは行かれないけれどお部屋の深い観音さまは、きっと私の願いをかなえて下さるにちがいない」と、三・七・二十一日の願かけを始めました。毎日毎日観音さまにお詣りをして「どうぞ夫の目を一日も早く治して下さいませ」と、お祈りを続けましたが」しかし、満願の二十一日目になっても、夫の目は一向によくなりませんでした.
妻はくじける事なく「これは私の努力がまだまだ足りないのだ。もう一回、二十一日の願かけをしよう」と、さらに二十一日の間一心不乱に観音さまに祈り続けました。しかし、二回目の満願の日がきましたが夫の目はまだよくなりませんでした。夫の目の病気の快復を願う妻は「満願の日を自分で決めたのでは、観音お聞きお聞き届け下さらないのであろう。私は夫の目の治るまで、夫と共に何日でもお詣りをするのがつとめではないか」と考え直し、それからというものは、夫婦揃って毎日毎日、暑い日も寒い凍りつくような冬の日も、水ごりをとり、はだしの足から血が出てきても、一心にお祈りをつづけました。夫婦の真剣さが観音さまに通じたのでしょうか、ある日、妻が雨戸をあけると、夫は「何か目の中に光るものが入っている」と、妻をだきしめ、喜びあったのでした。それからも観音さまへのお祈りは続きました。しばらくたった或る日、突然夫は「目の中に日の矢が刺さった」と、その場に倒れこんでしまいました。妻は息をしているだけの夫を、静かに横にして眠らせました。どれほどの時間がすぎさったのでrしょうか。夫は突然起きあがって「あっ、目が見える。目が!!お前の顔が!!お前の顔が!!」と、大声をあげたのです。妻は夫の顔をまじ見つめながら「私達の信心が通ったんや。これもみんな観音さまのお陰や」と、涙をこぼし、夫婦はかたく抱きあって共に歓びあいました。
この不思議な霊験から、だれいうともなく、いままで呼んでいた森面堂という地名を改めて「目を守る堂」ということから「守目堂」というようになりました。そして、ここの観音さまは、目を守って下さる霊験あらたかな仏教といわれています。
守目堂の地名とその観音さまには、このようなお話が伝わっています。