「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

本のある喫茶店 うのん からのお知らせ です。
昨日4月28日から5月11日 までコロナウイルス感染症対策のため臨時休業いたします。
落ち着きましたら、薬師寺と写真家入江泰吉氏により有名になった大和の風景との道途中 徒歩約10分 にあります。小ぶりですが大和の情報の書物見ながら 休憩にお越し下さい。
皆様方におきまして ご自愛くださいませ。
ブログは 日々続けていきます。


薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「内馬場の由来」



天理市の内山に、昔、立派な永久寺という寺院がありましたが、今は跡だけが淋しく残っているのです。
永久寺のはなやかだった頃のことです。永久寺の僧侶は乗馬が下手な為に大変苦労をしていました。「私も乗馬の稽古をして、何とか上手にならなければいけない。」と寺院から御不様様を通り、布留の石上神社へ馬に乗り、参詣をして乗馬の訓練を続け、上達を祈りました。
毎日毎日、馬に乗りお詣りをする乗馬姿を見て、周辺の人々は「又通らはる。ややこしい馬乗りやさかいに、落馬したら危いで。馬の通る道にはちかよらんときや、よけときや」といってさけていました。毎日、乗馬の練習で通る道、即ち乗馬は、決って同じ道で、その内側を内馬場と言い、村の人はいつもそう呼んでいるうちに、それがそのまま地名になってしまいました。内馬場のはじまりは、このように乗馬の練習場であったようです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「てんりのむかしばなし」から
「ジャンジャン火」

昔、天理市藤井町の龍王山に、十市遠忠が城を築きました。その龍王山に築かれた城は、大変立派な城で、ちょっとやそっとでは落城しないと言われていました。十市城主・遠忠もすぐれた武将でしたが、信貴山城主・松永久秀に攻め落とされて、遠忠は信貴山をにらみつけ、うらみをのんで憤死しました。大勢の兵士達も、うらみをのみながら、火の手の上った城と共に命をおとしました。この兵士達のうらみは城跡に残り、成仏出来ないまま、火の玉となって時々山上に現れるようになったのです。
雨が今も降りそうな夏の夜になると大きな大きな真赤な火の玉が現れました。それを見た村の人達が「ホイホイ火の玉だ、ほらほら」と言った途端、城壁の方からその火の玉は飛んできました。無数の火の玉がジャンジャンうなりをたててその人をとりまき、焼き殺してしまいました。そんな事が龍王山を囲む村々でちょいちょい起こったのです。
「オーイ」と呼びかけようものなら大きな火の玉は音をたてて飛んできて、その火で焼き殺されたり、熱にうかされ、「あついあつい」とうなり苦しむ者等で村々では大さわぎとなり、「ジャンジャン火を見るな、声を出すな、ジャンジャン火が通る時は橋の下にかくれろ、通り過ぎるまでは出てはいかんぞ」と、火の玉を恐れるようになりました。
ある時、一人の武士が「おれは退治してやろう」と、竜王山の中腹で、現れた火の玉に切りつけましたが、兜に火がついて死んでしまいました。又関取りが力づくで退治しようと龍王山に登りましたが、戻ってきません。村人が探しに行くと、大きな体にくもの糸でぐるぐる巻きにされ、息絶えていました。村人はびっくりして、山をころげるようにして鍵や草履をほっぽり出して、村に逃げ帰りました。それからは、城壁に行くと必ず、何か落とし物をしてくるようになりました。田井庄の首切地蔵の所では、ジャンジャン火に出会った武士は力で斬りまくり、力一ぱい石地蔵の首まで斬ってしまって、結局、黒こげになって死んだといいます。丹波市の南庄で火の玉に出会った人は、待っていた提灯で防ぎ、焼け死んだと言われています。
十市城で亡くなった十市遠忠や多くの兵士達の怨念は、おそろしいものですね。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

コロナ時間が多くなっていませんか?
皆様方におきましては ご自愛くださいませ。
「てんりのむかしばなし」から
「九頭神社の鎮守の森」

天理市の芦原町の氏神様は、九頭神社(くずじんじゃ)といいます。そのお宮に伝わる話です。
山深いこのお宮の森は、鳩の声が聞こえ、雉のきわだった声も、静かな山にひびき、山兎、りす、むささび、そしてふくろう等、沢山の動物も住んでいます。
この鎮守の森に住んでいる動物をとると、大変な事がおこるから絶対にとってはいけないと、昔から言い伝えられていました。
「神社のあたりに住みついている動物をいためると、神の罰があたる」という事で恐れて、誰も言い伝え通り猟をする者はいませんでした。
しかし本当にそんな事があるのだろうか、もし猟をしたら、どんな異変がおこるのだろう。と、言い伝えを不審に思った狩人が明治の初期に鉄砲を持ち、まだ夜の明けない暗いうちに、この森へ入っていきました。
明るくなって動物が出てくれば自分の腕の見せどころ。一発のもとに獲物を撃ってやろうと、鉄砲をかまえて持っていました。
いくら持っても夜があけないのです。何時間待ったのでしょう。真っ暗なので仕方なく猟師は社の松並木のあたりへ出て来ますと、白い着物を着て冠をかぶった人が、白馬にまたがり社の方からこちらへ向かって来られるではありませんか。猟師は真っ暗だった森の中に、一瞬、光のさすような神々しい白衣の姿に自分の眼をうたがい、「ハッ」として立ちすくんでしまいました。「一体今見えたものは何であろう。神というものだろうか」と、じっと眼をすえて見つめていると、その白衣の姿はだんだん薄くなり、そのうちにあとかたもなく森の中に消えてしまいました。途端にあたりが明るくなり、もう正午近くを示す太陽が高く頭上

に輝いておりました。猟師は目がくらむような気持でその太陽を仰ぎ、真っ暗だった森の中を見まわしました。そして思ったのです。「私が猟をしようと思ったために、目が見えなくなり、何時までも暗かったのだろう。鎮守の森は神がお守りになっている。私は大それた事をする処だった。神の森をけがそうとしたのは申しない事であった。よくまあ眼がつぶれなかった事よ」と、神社におまいりをしておわびをし、二度とこの森では猟をしない事をちかいました。それからはこの森に銃を持って行く人は無く、言い伝えが守られ、今でも鳥の声が優しく森の中から聞こえてくるのです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

明日から三度目の緊急事態宣言 日々行動が難しい時間に ご覧頂ければ幸いです。
「てんりのむかしばなし」から
「かみなりごろ吉」

むかし、むかし、或る晴れた日に雷の子ども達が曇の上で、竹とんぼを飛ばして楽しく遊んで遊んでいました。雷の子ども達は、父親から人間の子は竹馬というのに竹馬というのに乗って遊ぶことを聞いて、曇の上から下界をのぞいて見ました。曇から落ちないように、うしろをつかんで、かわりばんこに下界をぞいていているうちに、曇からあまり身をのり出して下をのぞいたので、とうとう地上へ落ちてしまいました。
天から落ちてしまった雷の子どもは、天王神社の〆縄にひっかり、宙ぶらりになり苦しんでいました。もがけばもがく程、からみついて〆縄はきつくしまっていきます。「助けて、助けて・・・・」声も次第にとぎれになりました。
そこへ芦原城の殿様が大勢の家来を連れて通りかかり、「あれなる声の主は何者であるか」と、供にきかれました。「見た事のない姿をしています。危険ですから近寄らない方がよろしいかと存じます。」
「なるほど不思議なかっこうをしているから助けてやろう。見捨てるわけにゆかぬ」と、家来に命じ、〆縄を解いて助けてやりました。「お前は一体何者だ」「は、はい、雷の子、ゴロ吉といいます。この村の上の雲の仲に住んでるんです」「ああ、雷の子どもか。雷の姿を見たのは初めてじゃ」「雷の子どもは助けてもらって、何ども両手をついてお礼を言いました。」
長い間もがいて疲れがひどいので、お城へ連れて帰りおやつを与え、休ませてやりました。
一方、曇の上では上を下への大騒ぎ。一策を講じ、大きな雷の音を出して地上の者をこわがらせて、子どもを助けようと、雷の父親が大雷光と共に地上へおりました。お城の門前で、「子どもを返してくれないと、この村を雷攻めにするぞ」と、どなりました。

殿様は「お前も子どもが可愛いのか。へそを取られた人間の子の親の気持もわかるだろう」「いや、へそはわしらの大好物だ」「何と大好物じゃと。へそを取られた女の子は嫁にも行けず、どんな思いをしているかよく考えてみるがよい。二度とこの村へはへそを取りにこない事を約束するならば、子どもを返そう」は、はい、わしも子の親、固く固く約束を守ります」奥で寝かせてあったゴロ吉の手をとり、雷の親子は喜んで雲の上へ帰りました。殿様との約束を守り、それ以来、雷が落ちなくなりました。「雷の落ちない村」これは今の天理市吉原町に伝わる話です。