「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「櫟(いちい)の木と天狗」

むかし、天理市櫟本(いちのもと)の西にいちの大木がありました。この木の上に天狗が住んでいて、いっちんの実を投げて人を苦しめました。また近所のにわとりや、果物をとってあばれ、はては毎年ひとりずつ娘を人身御供(ひとみごく)に出せとまでいいました。
覚弘坊(かくこうぼう)というえらい坊さんが中国から帰ってきて、この天狗退治をもくろみました。ある日、覚弘坊が、
「もしもし天狗さん、シナからいいものをみやげに持って帰ったよ」
と木の下から呼び、衣の中から目がねを取り出して、
「これをかけると、大和国中すっかり透して見えるんだ」
と誘い出しました。そして目がねと櫟の木と交換する約束をしました。
坊さんはのこぎりで木を切りました。木は西を向いて倒れ、天狗は米谷山(まいたにやま)の方へ去ってしまいました。
櫟の根元を櫟本村、一の枝の指した方向を櫟枝村 横のところを横田村、枝を積んだところを千束村と名づけたといいます。


こういう伝説を地名伝説といいます。こんな村の名の出来たもとは、もっとも違ったものかもしれませんが、むかしの人は、そのわけがわかりませんので、それに疑問を持ち、それの解決談として、こんな話ができたものです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
飛鳥川上坐宇須多技比売命神社の場合
十四文字もの神社名は珍しい 坐処は大和川上流飛鳥川源流に近い稲渕と栢森のの中間右岸宮山の上に在って祭神は宇須多伎比売命 神功皇后 応神天皇を祀る 土地の人は「宇佐さん」と呼んでいる。「飛鳥古跡考」に「宇佐宮ノ下なる川中に少しき渕あり 皇極請雨の所にや」とある。皇極請雨の文字が気に懸る。推古天皇三十三年 高麗王 僧恵灌を貢る。仍りて僧正に任すとある。この恵灌に雨を降らせる様にと扶桑略記が書いている。我が国で雨を降らせ雨乞いの最も古い記録である。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「稗田(ひえだ)の里」

大和郡山市の稗田の里は、堀にかこまれた古い村で、日本の一番古い古事記という本の物語りを話し伝えられた、稗田の阿礼(あれ)さんのおられた里だというので、この村の氏神、売大神社(うたじんじゃ)では四十五ほど前から、毎年八月十六日に阿礼まつりが行われ、童話の先生たちがたくさん参拝されて有名です。
その阿礼さんよりまだむかしに、聖徳太子さまがこの稗田の里へお越しになりました時に、村人が稗のご飯をさし上げたということです。
聖徳太子は
「どうしてこんなものを食べているのか」
とお問いになりました。村の人は、
「この土地は水の便が悪くて、米が十分とれませんので、稗を常食としています。」
と答えました。太子は
「それはかわいそうだ。水の便をはかってやろう」
とおっしゃて、その付近を馬にのっておまわりになり、稗田の東方、今の奈良市池田町に大きな池を彫らされました。これが今の広大寺池で、今もこの池のかぎ元は稗田の里で、この池の水の最大の権利をもっています。稗田の人はこの池の水を出すたびに、聖徳太子のお徳をしたって、法隆寺へお礼まいりをすることになっています。
この稗田の村から少し西方に離れて、数軒の家があります。同じ稗田町ですが、ここを太師垣内(たいしかいと)といいます。六百年あまり前の亀山天皇の弘長年間に洪水があって佐保川があふれ、その付近一帯が砂原になりました。
その砂原の中から、めずらしい弘法大師の像を刻んだ石の仏さんが出ました。村人は興福寺にたのんで、春日山の木材をもらって太子堂をたてました。
ここむかし、大峰山への参詣道となっていましたので、おいおい人が住むようになり、いまの大師垣内というものができました。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「牛の宮」

むかしは人の家へ奉公にゆくといって、一年でいくらの金をもらうという約束で、雇われて行きました。今は子供はそんな働きに出してはいけないという法律がありますが、むかしはそんな法律はなく、子供でも奉公にやるうちがあったようです。
この話は、そんな時代のむかし話です。


大和郡山市の池之内町に牛の宮という小さな塚があります。東西十三㍍、南北十㍍ほどの古墳で、むかしは堀もあったようですが、今はなくなっています。
むかし、この近くのある百姓家が、六カ年の約束で、ひとりの子供をやといました。子供は主人に仕えてよく働きましたが、約束の半分の三年たった時に、ふとしたことから病気になって死んでしまいました。
その後、主人の夢にその子供があらわれて、
「生きている時は、大へんごやっかいになりました。約束のあと三年は、あす、牛かいがひいてくるはずの、牛を使ってくだし。毛色は私と同じようにまッ黒です。時刻は朝の七時ごろです。」
とこまかにつげて消えてしまいました。
はたして翌日、夢のとおり、朝の七時ごろ、まっ黒な牛が牛かいにひかれてきました。
主人の百姓はそれを買いとって使ってみましたが、実によい牛で、ほかの牛の二倍も三倍も働きました。
そして三年たったのですが、三年目に、何事もないのにその牛は急に死んでしまいました。主人は大そう悲しんで、塚を築いて、その牛を葬ったのが、この牛の宮だということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞いの歴史
夜支布山口神社の場合 
大柳生の太鼓踊り 大祭は八月十八日であるが前日の十七日を賀当といい、その夜当厘の庭で盛大な太鼓踊りが催される。太鼓踊りが毎年いまも踊られているのは上柳生がもっとも代表的であるが、もとは大和の東山中から吉野にかけて、また国中を石上社や和爾社大神社なども神社を中心とする郷村でさかんに行われていました。一般にナモデを踊り、あるいはイサミ踊りといい、主として雨乞いにイサミ その満願御礼にナモデ踊りをおどった。その昔大旱 霖雨は神野仕事と解釈されていて神の怒りをしずめるためのイサミ踊りを奉納した。夜支布山口神社を行われる太鼓踊りは雨乞いと豊作を祈念する民族芸能と理解されます。