「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「車返し」

天理市の田部(たべ)から川原城へ通じる奈良初瀬街道に車返しというところがあります。
明治のおわりごろまでは、八町なわてという野中の道で、その道を横ぎって東から川が流れていてそこに車返しの青石橋というのが、かかっていました。
今は人家や天理教の教会が建ちならんで北に東本大教会、南に筑紫大教会が建っています。
むかし、田村将軍が車に乗って、ここを通りかかりますと、にわかに車があとがえりをして、進まなくなりますた。そこへ白髪のうらない者が通りかかりまして、
「これは、西の方の八条村にある菅田(すがた)のお客さんが、東を向いておられるのに、その前を甲冑(かっちゅう)で通ろうとするからでございます。」
とうらないました。それで人をつかわして、お客さんを南向きにしますと、車はまた進みだしたと申します。それからここを車返しというようになります。


この伝説にある菅田神社は、事実この車返しから西方4㌔のところにあり、南面しておられます。
なお、車返しには、京都から勅使が大和神社へおまいる途中、このあたりで、何か事件か、戦争かがあって物騒だったので、ちょくはここから京へ車を引き返しました。それで、ここを車返しというようになったともいいます。


大和神社のちゃんちゃん祭(4月1日)の時に出す千代山鉾というのはこの勅使の代わりであるといわれています。
むかし、だれかえらい人が牛車に乗ってここを通った時に、何かここで車をかえさねばならん事故があって、車返しという地名ができ、こんな伝説が生まれたのではないかと思われます。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
雨を祈るには水辺で行なう必要があると考えられていたのであろう。跪拝四方 仰天祈雨は後世の四方拝を思わせるが、皇極帝が脱拝した場所が宮山宇佐さんと比定する説が阿り徳治思想が充実していたことが判る。ともあれ渡来系氏族が早くから定住し他地域に較べ文化が進んでいた。
明治の初年まで雨乞のナモデを「本庄なもで」と講して行っていた。その後内宮で「かりなもで」が行われた。いままた昭和62年11月8日なむで踊りが復活し豊かな稔りに感謝し甘雨順雨を祈っている。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「業平道(なりひらみち)と姿見の井戸」

天理市櫟本町(いちのもとちょう)の在原(ありわら)は、西名阪道路と、新しい南北の県道の交差する西南方の地です。
今は、そこにささやかな在原神社が残っているだけですが、むかしはここに立派な在原寺があり、もとは在原行平(あるはらゆきひら)や在原業平(ゆきひらなりひら)など、在原氏の氏寺でした。
平安時代に在原業平という歌人がありました。平城天皇の孫に当たり、有名な美男子だったということです。
若い時はこの在原の住んでいて、河内(大阪府)の高安にいる女の人の所へ通ったという業平道が千年後の今もなお、きれぎれであるが細々と残っています。これはむかしの大和と河内を東西に結ぶ大切な古い道だったのです。
在原から1㌔西へ行くと、むかし、聖徳太子が橘寺から法隆寺の方へ通われたという橘街道と、この業平道が交差する所があり、そこは大和群山大字新庄の鉾立という所ですが、その交差点の東南のすみに、業平姿見の井という古い井戸があります。
河内通いの業平はそこで自分の姿をうつしたといい伝えています。
今はここに蕪村の句碑が建っています。
「虫鳴くや河内通いの小提灯」
これは江戸時代の俳人谷口蕪村が、業平道のことをよんだものです。
この業平道は法隆寺の前を通り、竜田川をわたり、十三峠を越えて河内へ入るのですが、法隆寺の前の並松の北端にも、業平姿見の井があります。ここでも業平が姿をうつしていかれたといい伝えています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
我が国の正史である日本書記には皇極天皇元年(642)の記事が最も古い。皇極天皇元年は六月から八月にかけて大きな旱魃があり朝庭では様々に方法を尽くして雨を祈った。七月二十五日「群臣相語りて曰く、村々の祝都の所数の随に、といふ さらに続いて諸諸の神を祭ふ、或は頻りに市を移し、或いは河伯に檮る。既に所功無し というさらにつづいて蘇我大臣(’蝦夷)報へて曰くと蝦夷は大乗経典 大雲経を転読 佛 菩薩の像を厳ひて礼仏読経して雨を祈らせたが思わしい効がなかったので最後に八月一日には天皇みずから「南渕の河上に幸して 跪きて四方拝み 天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷鳴り 大雨ふる。遂に雨ふること五日、天下を溥潤しつ,是にて於いて天下の百姓」倶に稲萬歳 至徳天皇と申す」とある。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「櫟(いちい)の木と天狗」

むかし、天理市櫟本(いちのもと)の西にいちの大木がありました。この木の上に天狗が住んでいて、いっちんの実を投げて人を苦しめました。また近所のにわとりや、果物をとってあばれ、はては毎年ひとりずつ娘を人身御供(ひとみごく)に出せとまでいいました。
覚弘坊(かくこうぼう)というえらい坊さんが中国から帰ってきて、この天狗退治をもくろみました。ある日、覚弘坊が、
「もしもし天狗さん、シナからいいものをみやげに持って帰ったよ」
と木の下から呼び、衣の中から目がねを取り出して、
「これをかけると、大和国中すっかり透して見えるんだ」
と誘い出しました。そして目がねと櫟の木と交換する約束をしました。
坊さんはのこぎりで木を切りました。木は西を向いて倒れ、天狗は米谷山(まいたにやま)の方へ去ってしまいました。
櫟の根元を櫟本村、一の枝の指した方向を櫟枝村 横のところを横田村、枝を積んだところを千束村と名づけたといいます。


こういう伝説を地名伝説といいます。こんな村の名の出来たもとは、もっとも違ったものかもしれませんが、むかしの人は、そのわけがわかりませんので、それに疑問を持ち、それの解決談として、こんな話ができたものです。