「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「汁掛祭の由来」

葛城山の下、御所市の南郊に蛇穴というふしぎな名の村があります。
この村の野口神社では、毎年旧五月五日のお祭りのあとで、「汁掛け」「蛇綱曳き」という奇妙な行動を行なっています。
この日は、朝から座本の家に、村中の人が集まって、三斗三升三合(およそ70リットル)の豆味噌をすrち、汁をこしらえて、村人も飲み、当日の参詣人や道を行きかう人々にぶっかけます。これは邪気をはらい、もろもろの病を除くということで、わざわざ近住から参詣する人が相当あります。
その汁掛けが終わるとワラでつくった蛇綱を、善男善女が村中引き回って後、野口神社に納め、社前の大老樹にまきつけて、行事が終わるのです。
その家の祖先である神武天皇の御子の彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)の後裔、茨田の長者が河内の国(大阪府)からこの蛇穴の地に来て住んでいました。
その長者にひとり娘がありました。そのころ茅原郷から葛城山に、雨の日も、かかさず修行に通う役の行者を、この」娘がお慕い申しましたが、行者は修行一途でふりむきもされませんでした。ついに娘は女の一念から蛇身に化けてしまいました。時あたかも旧五月五日の田植え時で,村人が野良への弁当を持って通りかかりますと、大きな蛇が火をふいていました。びっくりして、持っていた味噌汁を、蛇にぶっかけて逃げかえりました。それから、大ぜい
誘いあわせて来てみると、今まで恐ろしく火をふいていた蛇が、かたわらの井戸の中に、おとなしくはいっていきました。村人はこれ幸いと、巨きな石を、もって井戸をおおいました。
その後、その娘の供養にと、野口神社の祭典に、汁掛け祭りと蛇綱曳きの行事をし、その霊を慰めるのだということです。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
共同祈願
雨乞には数部落あるいは数箇村合同で行なわれるものがある。雨は一部落一村に限って降るものではないから、これは当然考えられることである。再び布留に願うと これは現在の天理牛(’旧山辺郡布留)の石上神社(布留宮)の氏子地域北郷二十六箇村 南郷二十箇村からなる広い地域の共同で行なう雨乞である。旱魃が続くと北郷ではまず桃ノ尾竜王 南郷では篠井の竜王に詣でて雨を祈る。それで効のない時は南北両郷で石上神宮へ願かけをする。この願いは三つの願いの中からクジを引いて神意にかなったものおきめ 雨をくださればそれを奉納しますと願をかけをするのである。この願の一つはナモデ踊りと称する念仏踊りであったが「天理市史」史料編に収められている。「南無阿弥陀仏踊」と題する一文にはこの踊りは「布留五十余郷とし執行なり」としている。大和ではこのほか 大神神社 大倭神社等についても数箇村共同の雨乞が行なわれた。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記



薬師寺 大池(勝間田池)大仏殿 若草山 高円山 そして青垣こもれる山々の風景 これは 大和 だけでなく 日本古代から続いている風景 優雅で奈良時代 悠久の時代の人々と同じ風景を眼に出来る所 池と塔は心安まるものです。

この看板を池に掛かったのを見つけたときは嬉しく この地に住まいをしている事に誇らしげに

これは今年の若草山の山焼きの日 素敵なアングルで写真を撮るため早くから場所を探してられます。 まだまだこれから人は増えてくる時間です。


しかし

奈良市など5つの自治体のゴミ処理場が出来るとのこと だとすれば こんな感じ 煙突も増える予定 今の大和郡山のゴミ処理場を大きくする予定と伺っています。
人間生きていく上でゴミは出てきます ゴミ処理場は必要です 
奈良では どの場所でも問題はあるでしょう。
だったたら 方法を考えて 大和にあった計画にしてほしいものです。
処理場の建設には経費はいります。持続可能なモノにして 頂きたいものです
民間の知恵考え方をも取り入れ 奈良モデル にして今後の問題解決のお手本にしていきたいと考えています。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「追付の森」


御所市玉手町、下市街道に沿うた東側、人家のかたわらにある森を追付の森といいます。
むかし、役の行者が十七歳の時、初めて葛城山へ修行のため登山されますと、どこからか、 十五、六歳の少女が現れて行者にたわむれました。行者は手に持っている独鈷杵(どつこしょ)をもって、その少女を打ちますと、その少女を打ちますと、その少女は大いに怒って悪臭を吹きかけました。そして西南の方へ逃げて行きましたので、行者はそれを追いかけて、近づくと、少女は大蛇と化して行者を呑もうとしました。行者も通力自在の身であったので、大蛇に負けることばく、わざと左右へ身をかわして大蛇を追い払われました。それでここを追付の森といい、森の中に追付大明神という神さまをまつってあります。
この因縁によって、御所の鴨の宮の氏子らが祠を造営し、鴨の宮のお旅所となっています。


怪しい少女の化身でである大蛇は、追付の森からさらに西南の方へ逃げて行き、市部村の西の大きな穴の中へすくみました。行者はこれを野口大明神とあがめ、その穴を小石で埋められました。この因縁によって、毎年旧五月五日に御所・さらぎの童子らが寄りあって、小石をもって互いに打ち合いする行事となっています。それで市部村を、のちに蛇穴村と改め、「さらぎ」村といいました。それがいまの蛇穴町の名の由来です。
蛇穴と書いて、さらぎと読むことは大へんむつかしくて、むかしからいろいろ学者の説がありますが、まだはっきりしません。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史  ナモデ踊り
ナモデ踊りはこのほか山辺群東里村「現奈良市)に天保八年(1837)の唄本がある。(東里村史)カンコ踊りとか云う。添上郡原郷(現奈良市)では天禄十二年(1699)の八月の夜天満宮で雨請うの諫踊りがあり四郷十三箇村が集まって踊った。その後の仮礼踊りにはナモデ踊りが行なわれた記録もある。
生駒郡平群町のナモデは文久三年(1863)の踊りの絵馬が今も残るが この絵では、カンコ打ち十二、三人 鬼二人 弊ふり二人 太鼓三人等が出ている。同じく生駒郡安堵村のナモデは伴林光平の「神椙帖」文久三年六月十二日の条に「安堵村に南無手という踊ものするに詣あひて打見るに其様いと古風にて」云々と見えている。