「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
高取藩領の「風俗間状答書」にナモデ踊りは高取藩領のほか布留 三輪 大和 違生社等にもあって大概は相以たりとあるように大和各地で見られたが、このうち三輪の大神神社について記すと、ここは三輪郷一帯の雨の神であって 旱天には郷中が高峰に詣り 御祓い 三百座や神楽等があり、それでも降らぬ時は母衣渡りや山万灯が行なわれた。そうして験があれば惣郷中寄合のナモデ踊りが催されたのである。「三輪叢書」所収の「」雨乞踊役付帳」によると謡い方 ホラ貝 鉦打つ 大太鼓 棒フリ 踊りこ 警固 母衣 火持 水持 早馬の役があった(寛保三年(1743))寛政二年」(1790)のものこのほか郷中の一つ忍坂の「官座文書」には寛文十二年(1672)の雨乞踊り貞享四年(1687)のイサメ踊りの記事がある。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「奥田蓮池の一つ眼蛙」

役の行者(えんのぎょうじゃ)のお母さんは刀良売(とちめ)といって、高田市奥田の蓮池の堤で病を養っておられました。
夏のある朝、お母さんの刀良売るが池の中にまつってある捨篠神社(すてしのじんじゃ)へおまいりになりますと、遠くで蛙のなく声が聞こえ、光かがやいて池の蓮の茎が伸び、二つの白蓮が咲きました。そして、そこには金色の蛙が歌っていました。
そこで刀良売は、何げなく萱を一本ぬきとって蛙に投げますと、それが蛙の眼に当たり、蛙は片眼を射ぬかれて水中深くもぐりこみました。その俊寛、池面をいろどった五色の露も、一茎二華の白蓮も消えて、蛙はみにくい褐色に変わり、一つ眼になって浮かびあがってきました。
刀良売は悪いことをしたと、自責にたえず、ついに病気が重くなり、とうとう四十二歳でなくなりました。
母を失った役の行者は、発心して修験道(しゅげんどう)を開き、吉野の東山に入って、吉野山蔵王権現(よしのやまざおうごんげん)を崇め、蛙の迫善供養を行ない、母の菩提を弔いました。
毎年七月七日には、吉野の山伏が奥田にきて、ここの行者堂と、刀良売塚に香や花を献じ、蓮池の蓮百八十本を切りとって吉野へお帰りになり、吉野の蔵王堂から大峰山までの沿道にまつってある祠堂にこの蓮を献じ、蛙の供養をされるということです。
この日は、蔵王堂内で行なわれる蛙飛びの行事は、この蓮の華を献じる蓮華会(れんげえ)という行事の中の、一つの宗教劇のようなものです。

薬師寺近くの うのん 今月のお知らせ


ならら 9月号 NHK大河ドラマ 「麒麟がくる」でも出ている「松永久秀」の特集です。


うのん ではコロナウイルス感染対策として前日 5時半までにご予約お願いいたします。 I日 1組 少人数とさせて頂いております。必ず ご予約下さい。 Googleマップに連絡先入っております。宜しくお願いいたします。


今月のお休み予定
6日(日)7日(月)
13日(日)14日(月)
16日(水)
20日(日)21日(日)
27日(日)28日(月)


イベント(パーソナルカラー)にて 
5日(土)19日(土)は午後1時半までの営業です。
宜しくお願いいたします。

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「子供のための大和伝説」から
「一本木の野神と曽大根(そおね)のさいかち」


大和高田市今里の西南、高田・根成柿(ねなりがき)線の道路わきに榎の巨木があり、しめ縄を張り張り、石灯ろうをあげ、毎年五月五日にお祭りがあります。この一本木の榎を野神さんとしてまつっているのです。
天文年間(四百余年前)に今里村の名主が金剛山の法起菩薩に月参りをして三百六十回におよんだが、菩薩の分身を村の西南角の榎の大木に移らせるというお告げがありました。
また、むかし、ここのお祭りの時、ほうらくの煤をつけあいして争いとなったことがありました。ところが、その年は豊年で米が倍もとれましたので、毎年の神事には、ほうらくも煤を塗ることになったといいます。



大和高田市曽大根の南端の川岸に、サイカチという大樹があります寝たといいます。高さ十メートルもあり、横の道路を通ると頭に枝がふれるくらいに繁っています。
ある日、村人が作物の苗をかついでこの木陰の橋を渡りますと、橋の上へ小蛇がおりてきました。かごで除けようとすると、たちまち大蛇になっておそいかかってきましたので、驚いて家へ逃げかえりました。その人はその夜から高熱を出して寝たといいます。
またある青年が川の護岸工事でこのサイカチの根を切りましたら、数日後に急死したともいいます。
村人はこの木を霊木として恐れ、そのかたわらに白竜大明神をまつりました。

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
雨乞踊り
大和の国で有名であったのは布留宮の踊りがある。この踊りは南北布留郷(現天理市)五十余個村によって行なわれる大規模なものであった。願かけの踊りをイサメ踊りといい 御礼踊りを本踊りと云った。踊りg¥はいわしゅるナモデ踊りと称する念仏踊りで(ナモデヤナモデ テンテンヤテンテン」という風な念仏から出たはやしがつく 文政十年(1827)の例をとれば 太鼓打十人シデ踊り二十四人 鉦八人 早馬十人 棒フリ二人 カンコ八人 筒吹八人等の役あり 神前 大鳥居等で踊った。