「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
竜形と雨乞
高市郡飛鳥村坂出 氏神で藁の竜を作り僧を招いて経百巻を操り これを担いで飛鳥川の渕に漬けたうえ心経を唱えつつ再び氏神に帰る。
同村島症 大蛇を松明をもって祝戸川まで送りそこに漬けておく。
池の中の鐘
奈良市忍辱山町ではタカオカミ神社の井戸をさらえ その底にある鐘を取り出し日光に当てた後 これを拝んでまた井戸に沈める雨乞の法があった。

薬師寺近くのうのんから大和気象歳時記

大和の雨乞の歴史
水かえ行事
室生村の各大字ではそれぞれの土地の滝つぼの水をかえる。
西吉野村 永谷の不動滝を乾かして雨を祈った。
大淀町東垣内では、大日堂の井戸を雨乞にさり、その泥を大日堂の屋根に上げると大日さま怒って、そのに泥を洗い流すために雨を降らせるという。
都祁村小倉のダケノ山の頂に竜神池があり、そこに、雨明神という石碑が建っている。この池の水をかえると大雨が降るという 大和各地から、伊賀からも雨乞に来たそうである。同じく山辺郡東山村北野の雨乞は、千灯明とか砂持ちとか、八種類の行事の中から 神意に叶ったものを選び、それを雨の降るまで続けた。その中に「牛ヶ峯の岩屋弁天の池かえ」とか奥元神社の鏡池かえの二つの池かえが含まれていた)
高市郡高取町車木 雨神の森の小さな池を、女ばかりが集まって裸になりかい出すと雨が降る。しかしそ姿を人に見られると効がないというので極秘でやった。神聖な場所を汚したというので、神が怒って雨を降らせるのだという。
明日香村岡寺にある竜蓋池は昔義淵僧正がそこに住んでいた大蛇を退治した所といふ。雨乞にはこの池をさらうか、池の中央にある石を動かす。
桜井市上之郷 滝倉では赤出の香酔峠の竜王社の小池の水をかい出し お神酒を上げ 貝を吹いて行き帰りしたという

薬師寺近くの うのん から大和気象歳時記

「子供のための大和伝説」から
「絵の中からぬけ出る話」

むかし、ひとりの旅の僧が、山添村中峯山のお寺にお寺にとまり、十日あまり何もせず天王社(神波多神社)の壁に、牛一頭だけ描いて、ひょっこりと立ち去ってしまいました。その後、村内では稲の田が毎晩だれかに食いあらされます。いろいろとしらべましたが、それはお宮さんの壁にかいてある絵の牛が、夜なかにぬけだして、食べていることがわかりました。
それで、村の人は前の旅の僧をさがし、伊賀の上野で追いついてつれもどり、牛のかたわらに松の木を描き、なわでそのみきにつなぎとめたような形に、かえてもらいました。
それからはもう夜になっても牛は稲田をあらさぬようになったといいます。
この絵師は名高い狩野法眼元信であったということです。


これとよく似た話が長谷寺にあります。むかし、弁慶と牛若丸が京の五条の橋で戦っている絵をかいた絵馬を奉納した人がありました。
それから毎晩、長谷寺では剣げきのひびきが絶えませんでした。ふしぎに思って、お坊さんが、ある夜ひそかに、昔のする所へしのびより、聞き耳を立てていると、その絵馬そっくりの弁慶と牛若丸が出て、戦っているではありませんか。
お坊さんは驚いて、翌朝さっそくその絵馬を墨でぬりつぶしてしまいました。すると、その晩から剣げきの音が聞こえなくなったということです。
前に帯解奥の院の竜が絵からぬけ出た話がありましたが、これも同じような話ですね。
絵があまり上手で、ほんとの牛や、牛若丸や竜に見えるくらい、よくできているので、こんな伝説ができたのだろうと思います。

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大和の雨乞の歴史
鐘漬け行事②
磯城郡朝倉村 (現桜井市)岩坂 この村の会祈寺と同村狛寺の鐘を初瀬川の渕に放りこんで雨乞をした。
宇陀郡大宇陀町本郷での雨乞は竜王神社に村中総出で心経千巻を上げて祈るが、それでも雨が降らない時は神社の雨ヶ渕に竜の堀ものがある寺の鐘を放りこむ。
室生村下笠間では雨乞には滝ツボをかいた乾すが底が見えると梯子で下に降りて寺の鐘を底にに置いた。
榛原町玉之寺の鐘を下し村中をひきずり廻して水に漬け雨乞をした。
下市町阿知賀では吉野川で石を拾って来て氏神に詣り雨乞をするが、効のないときは寺の鐘を吉野川に漬けてから神社に持ちこみ松明を持って村の境を廻る。村が広いからこれには二日間かかる
白銀村(現吉野村)では三十年以上前 寺の釣鐘やお宮の神輿を川に漬けて洗い僧や神主に拝んで貰ったことがある。
吉野郡吉野町滝畑 ハンショウタゲ という所に寺の半鐘を漬ける

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「子供のための大和伝説」から
「小倉の川尻地蔵」

都祁村の小倉の字川尻という所に、康永元年元年十月、日願主比丘頼円という銘のある川尻地蔵さんが祀られています。(康永元年は北朝の年号で633年前)大工坂原の何とかいう人の作ですが、残念ながら、石大工さんの名が読みにくくなっています。
この小倉の今岡という歯医者の先生が、たくさん民族資料を集めておられるのでそれを拝見に行った時に、この先生に、この地蔵さんを拝みました。地蔵さんのかたわらには大きな草鞋がかかっていました。
ここは、むかしはお伊勢参りの道すじでしたので、今でいえば交通安全の地蔵さんとして、あがめられていましたので、草履や草鞋をここへお供えしたのでした。それでまたお伊勢参りの人で、途中草鞋が古くなると、ここに供えてある草鞋をいただいて、はいてゆく人もあったということです。
いまは、この地蔵さんの身体が幾つも割れていて、セメントで修理してありますので、粉骨砕身の地蔵さんだといわれたりしています。
この地蔵さんには、土地がら小倉の凍豆腐に関係のある伝説があります。
むかし、ある人が凍豆腐がどうしても凍らないのに困って、どうにかよく凍らないのに困って、どうにかよく凍らないのに困って、どうかよく凍りますようにと祈願して、地蔵さんの境内を掃除したりして、きれいにしていますと、その翌日、豆腐がよく凍ったといいます。
また、庄屋の杉本武助さんが高野山へ凍豆腐の製造を習いにいっての帰りに、小倉までもどってきて、豆腐を道でこぼしていました。地蔵さんに願をかけた翌日、こぼしたところへ行って見ますと、きれいに豆腐が凍っていたということです。それから杉本さんは小倉の凍豆腐を始めたといいます。