「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くから 今週のお勧めの本

「ブッダ」 手塚治虫  (1巻~12巻)


ブッダの思想はアジア人として 気が付かない間に私達に生活に考え方に影響されていませんか?
難しいことが多くありますが  手塚治虫という偉大な方が描かれた本で お子様にも分かる様なマンガです 内容は濃く高度ですが とても分かりやすくなってます。

薬師寺近くから 大和の気象歳時記 №180 雷

雷に寄せて

外部資料

恐ろしい雷の経験から 雷が落ちない処を探しているうちに 「宮前霹靂神社」に行き会あたった。同社は奈良県五條市西久留野町西久留野集落西方の標高285㍍の産屋峯東方尾根上に鎮座 旧村社「延喜式」神名帳宇智郡の「宮崎霹靂神社」に比定 霹靂にはサクイカツチ・ナルカミ・カミトケ・ヒヤクラウ・ヘキレキなどの訓があるが 当社では「ミヤサキノカントケ」と祝詞に唱える。霹靂は雷鳴を意味し 宇智郡内には式内火雷神社もあり両者とも雷神を祀ったものと考えられる。
宝暦六年(1756年」)の掛軸箱には「雷公大明神」と

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№179 雷

雷に寄せて
今年は早い梅雨明け  本格的な雷シーズン始ります。
生駒郡平群町にある雲甘寺楢本神は 野間明神又は白山権現とも呼ばれ 古来より雷難除去の神といわれている。
奈良市七条町天満天神社は氏子中に落雷の害からお守りいただける有難い天満社として
信仰が篤い。

唐招提寺うちわまきは5月19日に行なわれる。このうちわを所持していれば雷難から救われるという

竹柏(なぎ)の樹は雨で全樹が簡単に濡れることから避雷針的な樹であるとの信仰があって献木されたとか そのことから転じて 竹柏の樹の葉を持っていると 雷雨 雷難からにげられると云う

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№178 地蔵様

地蔵様

伏見の丘を東に 三条大橋五丁目の地蔵堂はやや西に移りました。
鎌倉中期の地蔵石仏が安置されています。この地蔵は俗に縁切地蔵
と呼ばれ 安山岩製 像高は170㎝左手に宝珠右手は与願印を結び古式の印相である。光背に彫られた銘文から文永二年(1265年)に造られたことが知れる。衣紋のひだの流麗な表現などは鎌倉時代の特徴をよく表現している。古い時代のお地蔵様は錫杖をもたないものが多い。錫杖を持つようになったのは儀軌が決められ儀軌の内容が理解されゆきわたってからの後の様です。

薬師寺近くから 大和の気象歳時記 №177 

地蔵堂と地名「伏見」について

伏見崗 伏見翁と云う文字が目に付く
西の京丘陵は上部から砂礫層 砂粘土の瓦層 粘土混り砂礫層 粘土層にわかれ 地上に降った雨はこれらの層を通りすぎ洪積丘陵の割れ目から地下水が泉となっている。尼ヶ辻
から唐招提寺に向う途中に弘法井戸があったりして秋篠寺や唐招提寺はこうした水にめぐまれた地域に立地している。

大和名所図会 から
また フシミは不死身と古代の人は解し土地の歴史考古学者松本俊吉氏は熱っぽく論じている これとは別に 明治24年伏見村から県に報告した報告書によると 旧弘文院町にある郵便局(現在移転)の北側に小高い丘があった。そこに石造りの阿弥陀如来が建っていてこの丘を伏見の丘と呼んでいる。聖武天皇が大仏殿を建立の際何国から来たのか一人の老翁がこの丘に来て三年間頭を北面し東向に伏していた。里人が姓名をたずねも答えなかった。時の人この翁を「伏見の翁」と名付けた。天平19年大仏殿がつくられ波羅門門僧上が奈良にきたとき菩薩と波羅門僧上がこの翁の所に来たので翁は起きあがり笑みをうかべて三人は菅原寺(喜光寺)に入った。その後翁は姿を消した。村人たちは行基に翁のことをたずねると 東大寺の守護神であるといったのでこの地を 東大寺守護神影向の霊地とした。
「大和名所絵図」に翁が家の前でねている姿をのせている。伏見と云う文字は「日本書記」に垂仁天皇を菅原の伏見ノ陵に葬る とあるのが初見でありましょう。
私はこの話を聴き「伏見」は東大寺建立まで伏して拝んだ老翁の居たばしょだから伏して眺めて見ていたばしょだから 「伏見」と云うのだと理解していた。