「うのん」の気象歳時記ブログ

薬師寺近くの小さな本のある喫茶店

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№176 葉月

暑い夏は寒い冬を支配するか

夏の暑さが翌冬の寒冬を招くと占う人が案外多い。果たして本当にそうなのか。そこで7月8月の最高気温と翌冬1月2月の最低気温を比べてみた。調査期間は1953年44年7月8月の最高気温から1998年の1月2月の最低気温まで 44年間です
44年間の内最高気温月平均がかなり高かった回数は3回あった。それに対し翌冬の最低気温月平均がかなり高かった回数は1回 平年並の回数は2回であった。
 最高気温月平均が平年並は21回であった。翌冬の最低気温月平均のやや高かった回数は8回 平年並の回数は9回」そしてやや低かった」回数は4回をかぞえた。このことから 酷暑の翌冬は厳冬と占うことはむつかしく無理がある。

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№175 地震

新震度階級

外部資料

昨日ブログに記載した震度階級は阪神淡路大震災により震度表示が変わりました。
0  人は揺れを感じない。
1  屋内にいる人の一部が僅かに揺れを感じる。
2  屋内においる人の多くが揺れを感じる。
   電灯など吊り下げ物が僅かに揺れる。
3  屋内にいる人の殆どが揺れを感じる。
   棚にある食器類は音を立てることがある。
4  眠っている人のほとんどが 目をさます。
   吊り下げ物は大きく揺れ棚にある食器類は音をたてる。
5弱 多くの人は身の安全を図ろうとする。
   一部の人は行動に支障を感じる。
   棚にある食器類 書棚のほんが落ちることがある。
5強 非常な恐怖を感じる。
   多くの人が 行動に支障を感じる。
   棚にある食器類 書棚の本が落ちる。テレビが台から落ちることもある。
6弱 立っていることが困難になる。
   固定していない多くが移動転倒する。
   開かなくなるドアがある
6強 固定しない重い家具の多くが移動 転倒する
   戸が外れ飛ぶことがある。
7  揺れに翻弄され自分の意思で行動出来ない。
   ほとんどの家具が大きく移動し飛ぶものもある。


地球の歴史は25億年と云われている。かぞえきれない地震に関し近代科学のメスがはいりはじめたのはまだ100年余 たゆまぬ調査研究が続けられているが まだまだ分からないぶぶんがおおくあります。

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№174 地震

江戸時代中から昭和20年代
気象庁が定めた震度を絵にしたものです 



また同じ図です
⑯西暦1819年
      仁孝天皇文政2年6月12日奈良市史に春日大社の灯籠の倒れた記載がある。
⑰西暦1854年M6.9
      孝明天皇嘉永7年6月15日の地震を安政の大地震と云い死者約300人潰す家4 
      ~500春日大社他寺々の灯籠倒れたもの多数
⑱西暦1854年M8.4
      孝明天皇嘉永7年11月4・5日安政の大地震の後の地震で春日大社の灯籠が
      倒れ社家の潰家あり 東大寺でも一部破損
⑲西暦1899年M7.0
      明治32年3月7日県内でも家屋の壁亀裂 製糸工場の煙突折損の被害があっ
      た 春日大社石灯籠87基転倒
 西暦1923年
      大正12年関東大地震 奈良でもクライの水が飛出すほどの揺れがあった。
⑳西暦1925年
      大正14年5月23日北但大地震 大和の国では室内の器物が倒れ壁に割目 
      灯籠 石塔の倒壊多し
㉑西暦1927年
      昭和2年3月7日北丹地震 被害の程度は軽微であったが亀裂倒壊は北但地震
      よりも甚だしかった。
㉒西暦1936年M6.4
      昭和11年2月21日河内大和の強震午前10時8分県下に起こった強震 平坦部 
      各家では壁に亀裂剥落器物の転倒破損或いは土塀石灯籠の倒壊等県下一円
      甚大な被害が起こった。屋外で夜を明かす人も多数あった。
㉓西暦1946年M8.0
      昭和21年12月21日南海大地震 昭和に入って第二位の大地震近鉄大阪線
      榛原 室口大野駅間神田川鉄橋付近で池の築f堤が十㍍沈下し若干の交通
      障害発生
㉔西暦1952年M6.8
      昭和27年7月18日吉野地震 震源がやや深く(60㎞)この為被害は分散
      した。県内では死亡3負傷者6全開1春日大社の石灯籠約1600のうち650
      が倒れた

薬師寺近くから 今週のお勧めの本です

平成5年にお京都国立博物館での特別展覧会のパンフレットです
前ページ199 
日本列島に住んでいた我々の先祖 倭人 紀元前1世紀ころには100余国
中国の史書には記載されている。
それから3世紀ごろには邪馬台国を核とした国が出来権力者が現れてきている。


埋蔵品からその過程がうかがわれるものです

薬師寺近くから 大和の気象歳時記№173 地震

大和の国の地震 大きな社寺仏閣に被害 当時の住民の資料少なく

震度7を招かざるものとして描いたもの

同じ図です
⑪西暦1494年M6.4
      後土御門天皇明応3年5月7日大和の国には珍しい大地震で東大寺 興福寺  
      薬師寺 法花寺 西大寺及び矢田寺の民社多く頽損し余震は間断なく12月
      まで及ぶ なお文明年間(文明3年西暦1471年)
 西暦1498年
      明応7年8月25日大乗院寺社雑記に8月25日大地震 火神動以来来日々令連
      続也と余震が月を重ねたことを述べている程度であった。
⑫西暦1586年M7.9
      正親町天皇天正13年11月29日興福寺内築垣方々崩了 宝光院慈恩のつつみ
      も崩了・・・多門院日記に詳述あり
      飛騨地方を中心の地震としるしあるだけであったが被害は広範囲に及んだ
⑬西暦1596年M7.0
      後陽成文禄5年7月13日 京大坂での被害は大きかったが 大和の国では
      興福寺年代記に 慶長元年大地震としるしてあるだけであった 
      (地震があって文禄を慶長に改元した。)
⑭西暦1662年M7.6
      後光明天皇寛文2年5月1日 京滋賀での被害は甚大であったが 大和の国
      では軽微であった。
⑮西暦1707年M8.4
      東山天皇宝永4年10月4日 五畿七道に互った大地震で最大級の地震の一つ
      大和の国では62人が死亡 遺家3219 興福寺 法華寺ほか多くの寺で被害
      があった。(宝永地震)
 
マグニチュードが正しければ 東北の地震より大きなものだったことになります。