薬師寺近くのうのんから 大和の気象歳時記
大和の自然 大和の干害
日本書記に「是歳冬、於倭国作高市池 藤原池 菅原池 肩岡池」とあって推古天皇15年に、気候の異和不順に備えてタメ池を作り 食料を確保しようと計画さえあった。今にいたる大和平野のタメ池の多いのは有名で 五町歩以上タメ池が1600余もある。干ばつの際はタメ池が活動します。しかしタメ池の水量だけでは 田に20㎝ほどにしかならない。大和平野は水不足 その為雨ごいの風習は多くあった。
推古天皇 外部資料
タメ池は皿状で表面積は広く 容積は少ないので 表面から蒸発量が多くタメ池の目的には不十分であった。日陰 表面積小さく深いことが タメ池として望ましいので 倉橋タメ池はその理に叶っていた。
𠮷野川分水 今は当然のように思えるが 田畑への水の補給の課題からは徳川三百年の悲願達成といわれているが 推古天皇時代かれあの悩みが解消されたと考えである。
倉橋タメ池 𠮷野川分水 外部資料